摩訶不思議なひつじワールドへの誘い~5
~ NAURAL WAER(天然水) ~
常温の天然水にいきつくまでに、少し試行錯誤した。
「水は飲んでいました」
デュオはカトルのその言葉を聞いて、よく冷えたミネラルウォーターをやったものだから、痛がったのなんの。
反応は壮絶だった。
冷たいそれを、ひとくち口に含むと、カトルは間髪入れずに、今まで見たこともない悲愴な顔で、だりだりだだーっと口からそのまま漏らしてしまったのだ。
笑った拍子に水を勢いよく吹き出すというのも確かに凄いが、無抵抗でダラダラ垂らすさまも、うがぁーという絶望的な表情とあいまって、凄まじいものがあった。カトルは結局、口に含んだ水を全部たらす格好になったのだ。
「カ、カトルゥッ!?」
「ぅ……ぃ……」
「な、何だよ、どうしたんだっ!?」
着ていたシャツの裾で、デュオは慌ててカトルの濡れた顔を拭った。
五日間くらい部屋着としてきっぱなしだったことを思い出したが、無臭だったのか、特にそれについてはカトルの表情が変わらなかったから、まぁいっか。で、デュオは気にしないことにした。
もっともカトルからすれば、それどころではなかったのだ。
「ぃッ」
ビックリして眼がまん丸になってしまっている。しかめっ面で眼にはいっぱいの涙。大きな碧い瞳がゆらゆら揺れているのに、湛えられた涙が流れ出さないのが不思議なくらいだ。
カハッと口を開けると、叩くのとあおぐのの中間のような仕種で、口許を両手で何度もペシペシとして、その後カトルはキューっと眼を閉じてしまった。
(カ、カメラ、カメラ! ……いや、それより、ビデオ!!)
デュオの心理はビデオ親父のそれと酷似していた。
カメラ小僧と言われる人種のような不埒な感情からではなく、あくまで純粋に、なかなかお目にかかれない最愛の人のカワイクも貴重な瞬間を残したいのだ。いつカメラ小僧に近付くかもしれないから、『今は』とつくかもしれないが……。あとでカトルに見つからないときに、一人でヘビーに釘付けで見直し続けることは間違いない。
よく考えるとそれは、紙一重の愛情表現だといえるかもしれない。最愛の我が子が(子供レベルのではあるが)窮地に陥っていても、目尻を下げて映像に焼き付けることしか考えていないのだから、物心ついたその子が当時の映像を目にしたときに、なぜ助けなかった、どうして笑っているんだと、不信感を抱き、父親の愛を歪んだ愛だと感じる危険性はないのだろうか。
小型で映像もそこそこのやつがクローゼットの中に……。と、せわしい動きでデュオが腰を浮かしかけたとき、
「ぅ……ケヘ、ケヘッ……カハッ……」
と、カトルがむせだした。
「ッ!? カトルッ」
そのために、さらに輪をかけた慌てた動作で、デュオはカトルの背を擦った。
ビデオカメラなんぞ取りにいく暇なんて、幸か不幸かなくなってしまった。
デュオのシャツをムギュッと握ったカトルはしばらく咳き込んでいたが、息が整いだすと訴えるような瞳をデュオに向けた。
「デュオぉー。これはなんですかぁーっ」
「どうしたぁっ?」
裏返ったカトルの声は、それでも可愛いから泣かせる。
まだ少し、えげえげ、息を詰まらせているカトルの頭を肩に抱き寄せて、宥めるように丸い後頭部を撫でた。少し癖のついた細く柔らかな髪は最高の『毛並み』だ。ツノはふにゅふにゅと頬に当たるが、気持ちがいい。カトルの全部が柔らかいのは、抱き心地を考慮したこのためかと、デュオは勝手に納得してしまった。
うつぶせ寝で育ったのだろうかと、撫でがいのあるカーブに愛しさを感じて、別に臭わねぇよなぁと、自分のシャツのことをまた思い出す。
「ただの水だぜ、それ。どうしたんだ一体全体? ……そんなうるうるしてるだけじゃわかんねーだろぉ。なんだ? なにがあったんだ?? ちゃんと言ってみな」
「……口の中が、イタくて。びっくりしました」
「んっ?」
直ぐにコップを掴むと、デュオは中の水をゴクリと一口飲んだ。
「わわわわわ、危ないです、デュオ!」
それを見てカトルは慌てるのだが、しかし、デュオには普通の水だとしか思えなくて、首を捻ってしまう。
「あぶないですよぉー」
うろたえるカトルをデュオは不思議な眼で見つめる。
あぶあぶ慌てる姿もかわいいわぁ~と、むふむふ思っているとバレたら、不謹慎さにカトルは膨れるだろうか。
「いたいので、やめておいてください」
でゅおぉーーーと、不安な顔で見つめてくる心配気なカトルは花丸に可愛く、デュオの思考は原因追及からそれそうになってしまう。
軌道修正しなければ。カワイ子ちゃんの半ベソの理由はと……。
人一倍カトルはデリケートなのだろうか。はたまた自分が酸性雨を飲んでも平気なのか。さすがにそれはないと思うのだが。そこまではいかないまでも、カトル独特の感覚なのだろうか。
カトルは絶滅危惧種のひつじちゃんである。なにかしら、特殊な要素をはらんでいても不思議ではない。原因を突き止めるには訊問していくしかない。
「カトル、お前、水は飲んでたんだよな。それとなんか違うのか?」
「……僕の飲んでいたのは柔らかかったですもの。なんだかこれは、とんがっていて、口の中とか舌とか……喉まですごく痛いんです。キーンってするんです」
カトルの真摯な訴えに、デュオの瞳はぐるりと一周した。
間近で見ていると訴える姿が可愛すぎて、善からぬことに思考がのまれそうになるから、カトルから視線と意識をそらせようという苦肉の策プラス、マジメに頭の中を整理してみるためだった。
メロンの種の数を数えるような、気長な詮索の結果わかったことは、カトルが飲んでいたものは、どうやら、とてもまろやかな軟水だったということだった。しかも常温水。
味覚がそれに慣れているカトルにとっては、はじめて飲んだ冷えた硬水は刺激が強すぎたに違いない。
硬水と軟水の差など、さほど変わらないと思う者もいるだろうが、カトルからすればまるで違う液体らしい。
「悪いことしちまったなぁ、ごめんなぁカトル。気付かなくってホント悪かった。もう大丈夫だから。痛い思いは金輪際させないからな」
そう言ってデュオはカトルを慰める間、やわらかな頬やあちこちに五つキスをした。
「……デュオ。くすぐったいです」
笑いを洩らした桜色のほっぺに、もう一度、ちょいとキスをする。
この調子でデュオは、毎度カトルのそこかしこに触れている。このペースで触り癖がエスカレートしていくと、あと一週間もあれば、えらいことになってしまいそうだ。
「よしっ!」
デュオは一人、勢い良く頷くと、おもむろに立ち上がった。
ぺたんと床に座っているカトルは、上を向いてデュオを見つめる。
「すぐ戻ってくるから、おとなしく待っててくれよッ!」
「あっ……デュオ」
言うが早いか、デュオは家を飛び出して行ったのだった。
ニヤッと笑って肩で息をするデュオに、
「デュオ、今からどこかに出かけるんですか?」
と、ゆっくりと視線を向けてカトルが訊ねた。
天然水を抱えて、怒涛の勢いで『帰ってきていた』デュオは、世界最速の男だった。
■初出:1999.5.5■