摩訶不思議なひつじワールドへの誘い~3
WELCOME!
「カトル」
「はい」
「これは少し……違うようだよ」
いつもの様にトレーズがカトルを膝の上に抱き上げて、水鏡を覗きながら少し可笑しそうに小さく笑いを洩らした。
落ち着きのある口調には深みがある。貴族のような気品を身につけたトレーズ。理想的な体躯に、それは威厳となってあらわれていた。
「眠れないんだって、僕にはわかります」
「確かにそのようだが。――しかし、カトル……」
少し片端を上げた、トレーズの唇の動きを見ているカトルの瞳は真剣だ。
続く言葉を待って、緊張したようにカトルがギュッとトレーズの衣服を握り締めた。
その心配を察したのか。丸いカトルの頬をフニフニと摘んで、大きな掌はそこを撫でる。
カトルはそれを受けながら、気持ち良さそうに瞳を閉じた。
「あまり、カトル向きでないよ、コレは」
「僕では無理ですか? 今までもちゃんとできました。トレーズ様も褒めてくださいましたよね。……行って、ゆっくりと眠らせてあげたいんです」
顎に片手を充てて擦りながら、トレーズは考えを巡らせた。見上げてくる碧い瞳は哀願していて、この可愛いが強情な人をどう説き伏せたものかと苦笑しそうになる。
「今までとケースが違う。と言って、わかるかね」
「……」
「カトルが普通、管轄とする対象からは外れているんだよコレは。もっと、はっきりと言えば、本来シープはこういった者には介入しない。……私が先に、カトルに教えておかなかったのが、いけなかったのかもしれないが」
ひつじは元来子供を寝かしつけるものだ。今までカトルがいったところも、六歳迄の幼児のところだった。
『眠くならない』理由は、眠りを拒否している精神(こころ)によって齎される場合もあるのだ。
照明を消した暗い部屋で、瞳を開いている子供。眼を閉じた闇の中には怖いカオが飛来して。泣いて誰か呼んでも、広い闇に一人きり。天井を見つめているだけでドキドキと。頭まで布団を被ってブルブル震える。
何処からともなく現れる、うっすらと見える恐怖に目を閉じる。すると……瞼の中まで追っかけてくる鮮明な、おばけ。
そういう子のために眠りまで付き添い、ふと目覚めた時も怯えなくていいように、シープはずっと一緒にいる。その子の瞼の中のおばけが、何処かへ行ってしまうまで。闇は、眠りは、怖いものではないと肌で教えてあげるのだ。
お布団の中でだっこして。ゆっくりとぽふぽふと体を叩く。
静かに唄ったり、絵本を読んだり。そして、その子の呼吸に合わせ穏やかに数を数える。
それがシープの役割だった。
今回もカトルは寝かし付けてあげるつもりなのだ。
「……だけど、知ってしまったのに、知らんぷりなんて、僕にはできません」
ぷっとカトルは頬を膨らませる。
「カトルがシープ向きの容姿をしていると言ったことがあったね」
トレーズはおもむろに言った。
「はい。トレーズ様は僕にそう言ってくださいました」
「そう、きっと、歴代のシープの中にも、カトルほど恵まれたものはいなかっただろうね。私の知る中でも、君は申し分ない。素晴らしいよ君は……」
ゆっくりと動くトレーズの手の動きには、優しさが込められている。ずっと、カトルを育ててきたトレーズはカトルが最後のシープだという理由だけでなく、純粋で人を疑うということを知らない、強い心を持つカトルを心から愛していた。
猫の仔にするようにカトル喉許を擽りながら、トレーズは言葉を続けた。
「管轄外の人間は、一般的にシープを受け入れる心を持ち合わせていない。カトルがそこに行っても一方的な拒絶にあってしまう」
「今までだって、少しはそうでした。だから僕は大丈夫です」
……度合いが違う。
トレーズは胸の中にその言葉をしまった。カトルにはわからないだろうから。
「そうだね、たとえば例外的に相手がカトルを受け入れたとしよう。その場合カトルの容姿は逆に仇になる」
「どうしてですか?」
「……カトル」
いい大人が添い寝を承諾したとすれば、奇跡的にそいつがピュアであったか、莫迦であったか。しかし、一番可能性の高い理由は、『違う部分を満たす慰み者にしようと考えた』からだ。
穏やかな木漏れ日のような声色は、人を和ませる作用を持っているし、数え上げれば限がないが、カトルのシープとして優れている点は努力や経験では補いようのない身体的な部分にも現れていた。
生まれ持った素質をはかる容姿面で、綺麗、可愛い、柔らかい。人の好む要素を備えきっているのだ。
そして、トレーズ絶賛のツノ。基本的な向き不向きは、まずはこれによって決まるといっても過言ではない。どれだけその他が完璧でも、これが硬ければ話にならないのだ。一緒に眠る者を傷つけないために柔軟でなくてはならない。
子供は特に高音の声や丸い印象のものを好むが、そういうカトルみたいな者が思考に嵌まるという人間の割合は、子供以外でも多いのではないだろうか。
親の欲目ではなくトレーズの眼にはカトルは可愛いと思うのだが、本人の眼には自分はどう映っているのだろうか。
「カトル。君が思っている以上に、人は君にとって有害となり得るものなのだよ」
「ぜんぶがそうではないのでしょ。ここから、悪意は感じません」
きゅっと結んだ唇。じっと見つめてくる瞳は、なにを言っても通じないと言い張っている。
普段は聞き分けの良い子なのだが、ひとたび、納得の行かないことにぶつかれば、とんでもなく頑固で強情になる。この様子ではいくら止めても聞かないだろう。下手をすると勝手に行動を起こしてしまうかもしれない。
肩を竦めるようにトレーズは溜め息を吐いた。
「……私は甘いのかもそれないね。 カトル、君の好きにしなさい」
「じゃあ!?」
「ああ、行っておいで」
「トレーズ様っ!」
喜びの声を上げて、カトルはトレーズの首に両手を回してしがみついた。
受け止めた華奢な背中を撫でながら、トレーズは条件を出した。
「その代わり、なにかあれば直ぐに……。わかっているね?」
「はい。でも、きっと直ぐになんて戻ってきませんよ」
トレーズの思いを汲んで、カトルにしては珍しい、いたずらな笑顔で言ったのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「行ってしまったね。さて、カトルは無事でいられるのか。いささか私も心配性のようだ」
「……中途半端な過保護というのは始末が悪いな」
しなやかな印象の痩身の人物が静かな怒気を押し隠すように、トレーズの背中に向けて言った。
「そうだった。君は私以上にカトルについては過保護だったね。他のことにももう少し、その熱心さを振り分けたほうが、バランスがよくなりそうなものだが」
トレーズの言葉に秀麗な眉を顰めた。もう一度彼が口を開くより先に姿を現した青年が、うるさそうに二人の会話に割って入った。
「行ってしまったものはしかたないだろ。いつまでもグダグダ言うなッ!」
「なかなか君は尤もなことを言うね。同じ不機嫌でも前向きなのは結構だ」
何処まで真剣にそう思っているのか。トレーズの声からは読み取ることが出来ない。
不快感から、切れ長の黒い瞳がじろりとそちらを睨み付けた。
「純粋な花をむやみに手折るような無粋な真似を、私はしたくなかったのだが。カトルに教えずにいたことが少々多すぎたか。本人のペースでゆっくりといろいろ知ればいいと思っていたのだが……あの子はスロー過ぎたようだ。先に飛び出してしまった。社会勉強にしてはリスクが大きすぎると、君達もやはりそう思うかね」
「肝心な物事は包み隠して教えずに、そのくせ寛大な振りをする。痛い目に遭うのはトレーズ、お前ではなく間違いなくカトルだ」
今までの二人とも違う凛とした青年の声が、暢気なトレーズの笑いを撥ね付けるように言った。
「おやおや、まだここにも私達の同類がいたようだ」
揶揄するようなトレーズの声に、褐色の鈍い色を放つ髪を微かに揺らした、その青年が鋭い視線を向けた。
それぞれの敵意の篭もった視線に晒されても、人を食った振る舞いでトレーズはそれをすんなり躱してしまう。
トレーズは人から一目置かれているような青年達が束になっても敵わないような、そんな一癖ある人間だった。
こんな人間の下にずっといたカトルが、ひん曲がった思考形態を身につけず、どうして素直に育ったのかは謎だと、誰もが口々に言っていたことであった。
「まったく、頼もしい限りだよ。これでカトルの身の安全は保障されたようなものだ。私は枕を高くして眠ることができる」
余裕めいた微笑を口許に浮かべたトレーズは三人を見据えた。
「カトルの人を見る目と、君達の有能さを信じるしかないようだ。……あとは、見守るしかない……か」
微かに含まれた憂いは、トレーズがカトルを思う、本心によるものだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
そして、カトルは扉を開けた。
初めて観る室内の風景にトタトタと意味もなく歩き回り、ちょこんとベッドの端に腰掛けた。
なかなか現れない相手を待って、チクタクチクタク、時間が過ぎて。
ベッドの主の知らない匂い。
欠伸を両手で余るほど。
少しずつ、少しずつ。ベッドの真ん中に移動して。
……ボフンッ。
籠もった音を立て。
カトルは意識ごと、ベッドの上にひっくり返った。
ひつじ本からでしたー♪
リクエストしていただいたので、打ち込んでみました。
タイピングが遅いので大変です;;
最後の3人の青年たちが誰だかわかっていただけましたら、いいのですが。。
24本なのに、デュオさんがでてきておりません;;
いいのか、コレ!
と、思いつつ。
ここまで目を通していただきまして、ありがとうございましたv