reflect * * *
霞のかかる思考の中に光明が射す。おぼろげな形の中で、それだけは他に埋没することもなく、姿を留め、――胸にいた。
込み上げた熱いものを、隠すこともできない呼びかけに、トロワは思わず動きを止めた。
彼はただ、こちらを見つめ、瞳を潤ませていた。
背筋の伸びた立ち姿を見ただけで、気丈な奴なのだろうと感じるのに、秘めようする不安がトロワには見えた気がした。
見るからに柔らかな白金の髪や、白い肌の色。そんな色素の薄さばかりではなく、――それは、トロワの思い違いかもしれないが――吹きかけられた吐息の起こす大気の揺らぎだけで消えてしまいそうで。儚げな少年だと思った。
その優しげな眼差しに宿る心情は言い知れず。
少年は感情のまま、堪えた涙で瞳を揺らし。そう、ただ、その姿だけで、視線を受けたトロワの意識を止めてしまった。
青――緑を抱く碧。虹彩は地球の色だろうか。
宇宙から見たこの惑星(ほし)の色など、記憶にはないはずなのに、トロワは確かにそう感じていた。
名も知らぬ少年の存在は、自分の中、深く胸に入り込んできているとは思わなかった。……などと、空々しくて言えない。
終わったことを考え、“もし”を唱えることが、どれ程不毛であるか理解しているはずであるのに、トロワは考える。あの時、キャスリンが来なければ、自分はどう行動していたのだろうかと。そして、彼は、僅かに差し伸べるように上げた手を、どうしていたのだろうか……と。 * * *
シーツの擦れる音が耳につく。と、トロワは思っていた。
否、雨音も、だ。
閉ざしていた窓から、雨音がカーテンを抜け、室内に侵入してくる。
耳鳴りと酷似しているくせに、心地よい響き。その音は擬音にすればノイズのようであるのに、騒音との差異はどこにあるのだろうか。
外のことを思ってどうなるというのか。この状況で「雨が降っているんだな」と、トロワは確認するように思い、雨脚を描く。
――聴こえる音は他にもあった。
アンティーク特有の、規則的に鼓動を打つよう、秒針が”鳴る“、アナログの置き時計。
そこから聴こえるのは、針が微かな空気を――切り込み――刻む、音だった。静かに時が流れていると、それがトロワに伝えようとする。
さざ波の中で聴覚が澄む。
風音程度のそれらが押し寄せるように感じるのは、今の状況を現実(リアル)として扱えない自分がいるせいだ。
至近に、全てを凌駕する音色があるではないか。
それに取り込まれる危険を感じたから、トロワは些細な雑音まで拾おうとしていたのかもしれなかった。
吐息。か細い、糖蜜にまみれた呼吸音。
空気を嚥下し、唇――寧ろ口腔と舌が――濡れた音を立てる。
気泡が弾けるときの音に、少し似ているかもしれないが、ニュアンスが違う。何より、含まれた艶は、雲泥の差。
腕の中に押し抱き、腰のラインをなぞりながら、掌は下へと伝い落ちていく。
――愛撫を求めている――
と、錯覚を誘うカトルの白い肌は、触れると柔らかにトロワの手に馴染む。
こうして、掌で肌の肌理を直接感じ、皮膚の張りを知っていく。男とは思えぬ肌付き。瑞々しい素肌は柔らかで、あまりにも繊細だった。
本能が好むような心地の肌だ。余すところなく……と、思うのは当然だろう。
しかし、抑制するものがあった。
トロワを止めることができるもの――
二人の身体の間で固く握り締められたカトルの両手は、身を守る盾に見えた。
だが、実際は、萎縮し、縋り付く場所も見出すことができずに、空を掴んでいるだけのこと。小刻みに震える姿まで、訴えかける何かがある。――だから、その手に、身を預ける者が何処にいるのか指し示す為、トロワは唇を寄せる。
「お前はまだ、独りでいるのか?」
自分はここにいるのに。
愛しさと、もの苦しい想い。トロワはせつないという感情を、その身で知る。
「違うだろ。……独りで堪えようとするな」
息吹と声の立てる波で、刺激するようカトルに囁きかけ、手の甲に唇を落とす。
自分よりも随分と小さな手を、トロワが覆う。今はこんなにも臆しているが、本来なら伸びやかに楽器を奏でる手だ。そして、操縦桿を握っていた……。
たどるように撫で上げた腕を頭上で押さえつけ、トロワは組み敷いた少年を見た。
「……ト、ロワ…………」
トロワの鼓膜を刺激したのは、途切れがちな甘い声だった。
光の色彩。睫毛が震え、瞬く(しばたたく)。
不安定な揺らめきの中、魅了する力は失わず。垣間見えるのは碧の瞳。焦がれていた色。
「カトル――」
呼ぶと彼は震える。
畏れと歓喜。その両方に見え、トロワを困惑させた。
* * *
彼は不意のキスに泣いて、合意の口吻けを拒んだ。
身を竦めるようにして、トロワの元から後退り、唇を噛み締める。
カトルは首を振る。言葉もなく首を振るう。
強い拒絶ではなく、それは媚態とも映る頼りない仕種だった。
ひたむきに、想い続けてくれていたことは知っていたトロワだ。カトルは思慕さえ上手く隠すこともできない、純粋な人だった。
出逢って何年経ったろう。感情の高まりやすい戦場にいた頃から、(一時の錯覚、擬似的な気持ちかを見極めるように)全てが沈静化するだけの時間を掛けても、愛しさだけは褪せるとこはなかった。態度に出てしまうカトルを見ていれば、お互いに同じ気持ちであると……。
それなのに触れられることを避けるのは、すれていない人だから?
『僕は――――』
口を開いても、そこで止まってしまう。
もどかしいと思ったわけではない。
『カトル……』
意識をこちらに向けさせ、
『――好きだ……』
こう呟くのは卑怯にも思えた。
その言葉を注いだ分だけ、この人が共鳴するとトロワは知ってしまったから……。
現に、視界の中、カトルは今のトロワの声だけで、指先までこんなにも震わせている。
同様に、わなないていた唇が、何か形作ろうとした。
『トロワ、僕は――――』
動悸がするのか、切れ切れに呼吸をする。息苦しそうな彼をトロワは抱き締めて、腕の中に閉じ込めていた。
『お前が、好きなんだ……』
トロワの鼻腔を、カトルの髪の匂いがくすぐった。
* * *
求めるためか、奪うためか。
濡れた唇を重ね合わせ、ゆっくりと割り開く。気紛れにそこを刺激する舌は、口唇の隙間を抜けて口腔に迫った。
「ぁ……ン……ん……」
鳴くような、鼻にかかる小さな囀り。
媚薬のように甘やかな、柔らかな唇の感触。トロワは潤いを求め、渇きを癒すように、貪るという所業を演じている。
合わせた唇は蕩けそうに。精神(こころ)まで、侵食してくる。
粘膜の熱さを直に感じ、声は内部(うち)から伝わり。トロワが抱き締めた人は、――絡められる舌に巧く応えるではないが――口内を犯すのは愛撫と知ってか、彼の行為を受け止めていた。
恥じらいも肢体同様、無垢そのまま。
それなのに――
感じる微小な違和感。
不安定な精神状態にあった彼を、支えてくれていたであろう、真っ直ぐな瞳を持つ男が頭を掠め。直ぐに「考えられない」と、トロワは自分の疑問を一笑に付する。
それを言い出せば、宝物を見る瞳でカトルに笑いかける男もいたではないか。
この段になって、自分の持つ執着を目の当たりにするとは。
これまで思い過ごしだろうと考えていたが、鼻が利き過ぎるというのも……。偽りではない至純な反応。それでもカトルの微かな仕種から“知っていて、猶、怯えている”と、トロワは読み取ることができた。
そのことによって自分が“カトルは知らないはずだ”と、思い込んでいたと、トロワは初めて気づくことになる。
突き詰めれば切りがない。あくまで直感でしかないのだから。
導き出されるのが彼(トロワ)の望む答えなのか、それすらもわからないのに、疑念を追い払うかのように、トロワはより深くカトルを取り込もうとした。
トロワの耳に、激しくなった雨音は聞こえているのだろうか。
その音より、衣擦れの音より、妙なる音(ね)。そればかりは大きくなる。
色が増しているから、意識を逸らすことができない。もう、捕らえられているのだろう。より綺麗に鳴る瞬間を自らで作ろうと、トロワは“奏でる”。
カトルの滑らかな肌は汗でしっとりと濡れ、触れ合うそこは小刻みに震えていた。
惑う仕種。彼の皮膚の粟立ちや強張り、全てが快感に繋がっている。
なだらかな曲線を伝い、肌の中の、とある一点に触れると、身体が過剰な反応を返す。
ベッドの上で捩じるように上体が蠢き。見れば、カトルは漏れる声を押し殺す為か、口許を覆っていた手を唇で噛むようにしていた。
トロワが猶もそこを唾液で湿らせていくと、軽く曲げた指の背に、やんわりと歯を立てる。持て余したのか、それだけでは……と、ばかりに、もがくように震え続ける手が、一度、布の上を滑った。
トロワの身体の下で、カトルは喘ぎながら弱々しくシーツを握り込もうとするが、余裕のない布地を掴むことは出来なくて。ただ、白い手は爪先を立てて布を掻く。
あえか、艶やか、どちらというべきか。
「ぁっ……んん、ンッ……」
喘ぎが零れだし、思考まで侵食する感覚を遣り過ごすこともできずに。カトルは握り込み痙攣する拳を、再び、自らで抱き締めるようにして口許に当てた。
向けられた丸い肩のラインに、トロワは唇で触れ、細い二の腕を掴む。
呼吸に合わせ大きく動き、粟立つ肌えに呼応し、振動を続ける背の隆起にまで、トロワは目を奪われている。
鎖骨から繋がる肩の骨が、美しい弧を描いていると、目眩さえ覚えるように、感じたことはあるか。
少し先を見て、その感覚に緊張しているような……。ただ、それだけの事なのに。断定もされない事柄に、トロワの心は乱れている。
身体の中で実質の感覚を伴って渦巻いている激しいものは、本当に自分のものなのか。それさえも掴めない。
真白な素肌。手折れそうに華奢な身体。
愛撫に打ち振るえ、息を乱し。
すすり泣くカトルに、トロワは息苦しくなる姿勢を強いて、
『誰が、お前に触れた?』
無粋な問い掛けが喉元までせり上がる。
微細な傷さえ雪肌には不似合いだ。ガンダムに搭乗していたときに、この、やわそうな肌が、傷をつけていないわけがなかったろう。
今も、軽く吸い上げただけで、白い地には赤い足跡が残る。
強く掴めば、いとも容易く痣ができた。
――掠めた――
白い肌に赤く残る、シートベルトの跡。
それぞれが操縦席(コクピット)にいた頃から月日は流れ。記憶さえも風化していくというのに。
鮮明に。
『酷く痛々しくて、胸が軋んだ……』
そんな感慨まで添えて、トロワの中で像を結んだ。
想像にしては、生々しい描写だった。
* * *
驚き以外のなにものでもない。
トロワはそんな予期せぬ事態に遭遇した表情に出迎えられ、心の中で苦笑した。
「……当然だな」
役に立つのかも怪しい男が、宇宙にやってくるとは考えられなかったろう。
「何と呼べばいい?」
問い掛けに立ち尽くす彼にトロワは言った。
「名前を、教えてはくれないか」
何度もトロワの名を口にしていた少年は、まだ、名乗ってもいないことに気が付いていない様子だった。トロワにその記憶すらないということを、忘却していたというほうが正しいか。
「名前。僕の、名前……」
「ああ」
――『忘れてしまったんだね……』
微かな機械音がしているだけのここだから、耳にできた。人のひしめく場所ならば、周囲の音にかき消されトロワにさえ届かなかっただろう。
悲しそうで、問いを口にしたことを、トロワに少し後悔させた。
だが、
「知りたいんだ」
彼を探求したいという感覚は疑いようもなく。ここへきた時点で、そのことは否定できないと、おぼろげながらトロワは理解していた。
少年は口を噤んだまま――
向けられる瞳は、なんて、綺麗でせつないのか。それは、トロワの胸にまで波を立て。
「……呼んで、くれるの? 君は、僕の名前を、呼んでくれるの……」
トロワの耳に聞こえてきた彼の声は、泣いているようだった。
今しがた、モビルスーツに乗っていたとは思えぬほど、トロワに高揚した感じはなかった。事実特別な疲労も感じていなかったのだが、次の戦闘に備え休息をとるのも操縦者(パイロット)としての義務だろうと、与えられた部屋に戻ることにしたのだ。
自分が戦場にいたという話は、他人のプロフィールを聞くようで、トロワに何の感慨ももたらさなかったが、身を投じてみれば、『そうだったんだろう……』と、初めて違和感なく実感できた。
空間が遮断され、機体ごと宇宙に投げ出されても、ひと度、操縦桿(グリップ)を握れば、精神は研ぎ澄まされた。身に染み付いているとトロワは理解する。こうして生きてきたのだろうと。
トロワがたどり着いたのは、これといって何もない簡素な部屋であった。だが、設置された寝心地のよいベッドは、この船を造った者の配慮だろう。トロワにはそれで十分だった。腰掛けてもマットレスはギシギシと悲鳴も上げずに微かに沈むだけだ。
目を閉じれば、思い描くことが出来る。上品な物腰の少年の姿がある。
多くの者たちを寝食を共にしている硬質な空間の中で、彼だけは柔らかだった。
その人は、あたかも常闇の中の灯火のような、求める光とあたたかさを連想させる。微笑めば、どれ程、美しいのだろうかと、大きな瞳を思い出し、トロワは自然とそんなことを考えていた。
以前のことなど甦らない。”特別“だと感じるのは、”今の自分“が彼に惹かれているせいだとトロワは思う。
トロワの心(なか)に沁み透った、
「――――カトル……」
という存在。
誰よりも傍で感じたいという想い。
募っていく感情は何処へいくのだろうか。
*FIN*
初出2001年2月11日に少し加筆訂正しました