『うたかた』「カトル、時間が欲しいんだ。今、空いているか?」
静かな声だった。
カトルはトロワへ与えられた居住空間へと誘われた。
記憶の戻らぬトロワだったが、それでも、宇宙にあがってからは、戦闘時の感覚を取り戻してきていた。
なにかと自分を頼りにしてくれるトロワに、彼の役に立つことで、少しでも罪滅ぼしのようなものにならないかと、カトルは思っていた。それもまたひとつの、自分の罪から逃れるための目くらましかもしれないと、カトルは自嘲を感じるのだ。
二人きりになるとカトルの緊張はピークに達する。悟られぬよう、今、自分は上手く笑えているのだろうか。
「どうしたんだい、トロワ?」
仄かな笑みを浮かべ、カトルはトロワに穏やかに問いかけた。
「わからないことなら、なんでも聞いて。僕に出来ることなら、なんでもするから」
なにもわからなかったトロワを、ここに連れてきて良かったのだろうか。それを考えるたび、良心が軋み、吐き気をともなう自虐の念に駆られる。
どこまで自分はトロワを危険にさらすのであろうか。あのままサーカスにいれば、この戦場にいるよりかは、命の保障があったのに。
とっさにトロワの前に現れてしまったが、自分は一体彼になにを言い、どうしたかったのだろうか。
(こんなところまで来て、よかったの? トロワ……)
カトルはいつもその言葉を胸にしまっていた。問いかければ、悲しい答えが返ってきそうで。怖かったから。
仮の住まいでもそれぞれ個性が出るものだが、トロワのその部屋は無機質な空気で満ちていた。それも、彼らしいといえばそうなのだが。
「お花でも飾ろうか。僕が持ってくるよ」
カトルが呟くように言うのに、トロワは視線だけを向けた。
「いらなかった。……余計なことを言ってしまって、ごめんなさい」
俯きかけるカトルの髪に、トロワの声が触れた。
「いや、花より安らげるものが、たまにでもあればいい」
トロワの言葉が図れずに、意味を探ろうと、不思議そうにカトルは小首を傾げる。トロワは自分のほうへと視線を向けるように、俯いたカトルの細い手首を取った。
カトルは恐れるような瞳で、傍に来たトロワを見た。
「いつも、寂しげな、不安な顔をするんだな」
「え?」
「お前はいつも、俺を見て不安な表情を浮かべている」
「そ、そんなこと、ないよ」
笑ってみせるカトルの表情が皮肉にも、トロワのその言葉を物語っていた。どこか悲しげな笑顔。
「どうすれば、お前は心から笑ってくれるんだ」
「……ト、ロワ」
優しげな声をかけられると、勘違いしてしまう。彼が自分を赦したような錯覚にとらわれそうで。それは決してみてはいけない幻覚。
「花よりも、穏やかに微笑む、お前の笑顔が、この部屋に欲しい」
どうして、こんな想いを見誤りそうなことを、トロワは言うのであろう。
涙が込み上げてくる。カトルは眉を寄せると口許を片手で覆った。
「トロ、ワ……」
「お前の笑顔は美しいが、本当の笑顔が見たいんだ。どんなふうに笑うんだ。そのとき、その瞳は不安に揺れてはいないのだろう。俺はその笑顔を見たことがあるのか。知っていたのか?」
「今も、笑ってるよ。どうしてトロワ、そんなおかしいことを言うの」
カトルは笑顔で首をクンと傾げて見せる。無意識なのだろう、微かに眉が寄るから、その笑顔は逆に痛々しく見えた。
「俺がここに来たのは、お前の泣き声が聞こえたからだ。その声に導かれるまま、お前を追って宇宙に来た。それなのに、お前は泣いたままだ。俺には変わらない、お前が涙を零す姿ばかりが見えるんだ」
「な、泣いてなんか……」
「今も聞こえる」
トロワは自分を追ってきたというのか。
「トロワ、君、ここに来たことを後悔していないの?」
「後悔など感じたことはない」
「でも、コロニーにいたときより、死への確率が増したんだよ。危険な戦場なんだ。僕の事なんかを気にして来るようなところじゃないんだよ!」
どこまでも優しいトロワ。未知の空間に飛び出す恐怖よりも、自分の涙を止めたかったというのか。
「逆だ。もし、あのまま、あの場にとどまり、こうしてお前を追ってこなければ、俺は一生後悔していただろう」
だめだ、涙が溢れてしまう。彼の優しさは汚れた自分にはまぶしすぎる。
「記憶を失う前の俺は、お前を愛していたのだと思う」
「っ! そ、そんなわけ」
水面を風が渡ったように、中心から動揺というさざ波が、カトルの中に広がった。円を描きざわざわと、チクンと傷んだ胸から波紋が走り躰の中を駆け巡り、指先までも小刻みに震わせる。
「ならばなぜ、記憶もない俺がどうして初めて逢ったはずのお前に、特別な感情を揺り起こされるんだ」
「…………」
「それは俺が記憶よりも深い部分に刻み付けるほど、お前を強く想っていたからに違いない」
「トロワ、君……」
「そうだな。カトル、お前を心の奥底から欲していたんだろう。今も同じ渇望を感じる」
トロワは頼りなさ気に震えるカトルを抱き寄せた。
「お前が欲しい、カトル」
予期せぬ言葉。驚きにカトルの躰がビクンと跳ねた。
「俺の指す意味がわかるか」
「……」
「抱きたいと言っている。そして、カトル、お前の全てを俺のものにしたいと」
抱き締めたカトルの耳許に言葉を注ぐように。
「や、やめて、トロワ」
抗うが、力ではかなうはずもなく。
壁際へと追いつめられた。
ダメだと思った。
彼はきっと理解していないのだ。
この言葉を口にするのは苦しく。しかし、誤魔化せない真実。一生カトルが背負う罪のひとつ。
「君を撃ったのは僕なんだよ! 君の記憶がなくなる原因を僕が作ったんだ。僕は君を殺そうとしたんだよ。トロワ! 聞いてるの。僕は人殺しなんだよ!」
「俺を撃ったことは知っている。そこまでお前を追いつめさせたことを悔やんでいる。一番精神状態が不安定なときに傍にいてやれなかったことこそ、後悔している点だ。俺を攻撃することによって、カトルが元に戻ったのなら、あの戦いの場にいたことも無駄ではなかったのだと思う。だが、お前が悔いる姿を見たかったわけではない。オレという存在でカトルを苦しめたいわけでは無いんだ」
トロワはカトルに深く刻みついた自分という存在に喜びを感じていた。卑怯でも、この存在でカトルを縛り付けることが出来る。
負い目から愛して欲しいわけではない、自分だけを見つめて欲しいわけではない。笑顔を取り戻して欲しいと心から思う。
が、綺麗ごとだけでは説明できない感情の片隅で、カトルの消えない記憶になったことを喜んでいる自分も居たのだ。
トロワ本人が、望んで起こした行動なのだから、カトルには一切の責任はないと思い、そういうしがらみにはとらわれて欲しくは無いと思うのも本心なのに。
自分を撃ったことは気にしていない。しかし、この人の中に埋め込まれる記憶となったことに、無感動ではない自分がトロワの中にはいた。
トロワもカトルを縛り付けてしまった罪の意識を持ち、それでも、カトルを思う気持ちも、消せない、大きく確かなものであった。
「どうして。どうして、そんなこと言うの。話してさえくれなかったじゃないか。以前の君が僕を想っていたなんて、今の君の思い込みに過ぎないよ」
「思い込みで、一目見ただけのお前を、ここまで追ってこられると思うか。俺は確かに、お前の存在にぬくもりを感じている。カトル、お前が、俺の求める光に見えたんだ」
壁にカトルを押さえつけトロワは、その首筋に顔を埋めた。
ミルク色の肌は香りまでやわらかく甘いもので、トロワを昂ぶらせた。
「やっ! やめてッ、トロワッ!」
トロワはカトルの動きを封じる。カトルの背中で、その華奢な両手首を片手で掴んだ。
「ト、トロワッ!」
カトルが悲鳴のような声を放った。
「こ、こんなことをしたら、記憶を取り戻したとき君は後悔することになる」
「いや、後悔などしない。以前の俺も同じことを望んでいたから」
「……トロワ……」
「だが、今の俺に対して、記憶を取り戻した俺は、殺したいほどの嫉妬を抱くだろうな。ただ、それだけだ」
まっすぐな緑の瞳が、カトルを射抜いた。
「血迷いごとだと思っているか?」
静かに流れる声が、カトルを身動きも取れないほど強くその場に縛り付ける。
慣れない感情の表し方がわからなくて、トロワはカトルを傷つけるしか出来なかった。優しい言葉をかけてやることも出来ず、自分の感情を制御できない不安感から、突っぱねることで、カトルという存在を自分の中から排除し、平常を取り戻そうとしていたのだ。
どれほどカトルの心を傷つける、身勝手な保守する行動だったのだろう。自分の心の変化が受け入れられない、理解できないばかりに、カトルには辛く当たってばかりいた。
「お前の俺を見る眼が恋い慕うように、俺の眼には映る。俺を狂わせた……いや、目覚めさせたのは、カトル、おまえ自身だ」
トロワは思う、カトルを正気に戻したことが、カトルへの罪滅ぼしだったのだと。それくらいの罪を、カトルには積み重ねていた。全てを失う、ああなることで、初めて帳尻が合っただけなのだ。
だから、カトルが自分のことを気に病む必要など皆無だと思っている。
これも、自己中心的な考えなのだろうか。また、カトルを苦しめているのだろうか。
「記憶が蘇ったときに今の全てを忘れたとしても、お前にこうして触れたことだけは、以前の俺がそうしたように、この胸に刻みつけていたいと思う。このぬくもりだけは、忘れ去ることはない」
「そんなことない。彼――君は、僕の名前さえ、呼んではくれなかった……」
「俺はお前の名を呼ばなかったか」
目線を逸らそうと首を振って、カトルは硬直した。
いや、その名を呼ばれたではないか。ゼロで暴走する自分に親しげに優しく歩み寄ろうと、呼びかけてくれたのは彼だ。何度も何度も『カトル』と。
名前を呼びながら近付いてくる彼を制し、攻撃した光景が、最後まで優しく自分を諭そうとしてくれた彼の声色が、鮮やかに蘇り、カトルは一気に涙が迫り上がった。
「どんな、声をしていた」
唇が震え声を振動させる。
「……とても、穏やかで、やさしい……」
初めてのカトルを呼ぶ声。
頭の芯にこびりついて離れない、優しい響き。
『カトル』
頭の中の声に呼応するように、溢れ出した涙が止まらない。
「俺を撃ったことを責めているのはお前だけだ。当の本人の俺はなんとも思っていないのだからな。カトル。今、お前を呼ぶ、俺の声は、そのときのものとは違うものか」
穏やかな声は確かに、
「……ト、トロワぁ」
変わらぬトロワのものだった。
カトルが崩れ落ちるように、膝を折った。
「ごめんなさい、トロワ。トロワ」
泣きじゃくるカトルをトロワは痛々しいと思う。胸が張り裂けそうだ。
どんな罪を犯しても良心の呵責など感じたことなど無いが、カトルに罪の心を負わせたことは、産まれてきてはじめて、苦しいほど胸が痛んだ。
天使の象徴である色彩の、白を穢したようだと思ったが、今、目の前で懺悔するカトルの姿は、天使も霞むと思わせた純白の、変わらないそのときのままだった。
なにも穢れてはいない。この綺麗な涙を流せる心があるだから。
トロワ自身、カトルにとった行動は、カトルのためを思ってしたことで、この人の幸せばかりを願い起こした行動だった。付随してきた気持ちは、自分でも図ったものではないのだ。しかし、痛む心と同時に、流される涙が自分のためのものだと言うことに、少しでも喜びのような感慨を抱いていると知れば、カトルはトロワを見る眼は変わるだろうか。
「俺に安らぎをくれないか、カトル」
「穢れた僕に触れたら、君も……堕ちて、しまうよ」
「お前とならば何処へでもいける」
心象は清らかな天使のままだ。カトルはこの言葉を信じないだろうが。まるで、聖母か天使を抱くようだとトロワは思った。
「愛しているんだ、カトル」
カトルを地に堕とそうとしている魔物は、自分のほうであるのに。
誰がそれに気付くのだろうか。
涙の粒が床へと落ちた。
浅い呼吸を繰り返す。
吐息の中でカトルが洩らした。
「……トロワ、手を、離して」
「離せばお前は逃げてしまうだろう」
カトルは静かに首を振るう。
トロワの力が緩められると、自由になった、ほっそりとした両腕をカトルは彼へと伸ばした。
ふわりとトロワの背に、ほっそりとした腕を回し、カトルは彼を抱き締める。
彼のぬくもりを知れた喜びに。
――――神様。あなたに感謝します――――
彼が生きていたことを、この身をもって、受け入れることを、お赦しください。
主よ。初めてあなたを呼ぶ。
この人を手に入れることを、お赦しください。
この行為が赦されないならば、私は喜んで罪人になることを選ぶだけだ。
――――今だけの、うたかたの夢でもいい――――
これは、どちらの想いなのか。
■FIN■
初出2010年5月2日