【PECHA-PAI】1 † † †
仕事の時はいつでも運転手任せ。プライベートでも助手席に座るとこの多いカトルだけれど、今日は久しぶりに自分で車のハンドルを握った。
目指すは空港。サーカスの巡業に出ていたトロワがようやく帰ってくるのだ。
カトルは既に上機嫌で、今にも鼻唄が零れそうだった。
歌は飛び出してこないが、空港に近づくにつれ、その表情は笑顔を濃くしていく。自然と顔の筋肉がその状態を求めるのだから、仕方ないではないか。
チラリと車内の時計を見る。シャトルの到着予定時刻まで、まだ余裕があった。
(焦らなくても大丈夫)
注意散漫になる自分を嗜めるように、カトルは自分に言い聞かせていた。
大気と同様、宇宙(そら)の情勢も安定したもので、次々と発着していくシャトルにも目立った遅れなどはなかった。
ロビーのソファーに腰かけていたカトルは、予定通りならばあと十五分ほどで、トロワの乗ったシャトルが到着するという頃には、そこから立ち上がってしまっていた。
(落ち着こう)
と、暗示をかけるように唱え続けているが、そんな重石も浮つくカトルの心まで押さえつけておくには重量不足のようだった。
流石に少し張り切りすぎだとカトル自身にもわかっているが、自覚をしたところで症状が改善されるということではないのだろう。
気を紛らわせるため、カトルは硝子の向こうの景色を見つめる。硝子にうっすらと映る自分の姿に目をこらすが、外が明るくてよく見えなかった。
カジュアルなシャツは、見頃の部分が袖などと同系色のギンガムチャックになった、カトルにしては珍しいものだった。とかく偏りがちになるワードローブの色彩や系統に一石を投じるべく、トロワと選んだものだ。前身頃にアーガイル模様を使ったベストは持っていたが、カトルにすれば冒険だった。
「きっとよく似合う」と言ってくれたトロワの言葉を信じて袖を通した。
初めてこれを着るときには、まずはトロワに見てもらおうとカトルは決めていたのだ。
曲がってもいない襟を整えるカトルの仕草は、かしこまった表情と相まって年齢よりも幼いものに見える。身なり同様、呼吸も整え、カトルはひとつ息を吐き、見るからに柔らかそうな白金の髪を撫でつけた。見栄えを気にしての行為は、誰のためでもなく、一人の人の目を意識してのこと。
シャトルの到着を知らせるパネルを見て、カトルは待ち兼ねたようにトロワの姿を探し始める。シャトルからここまで来るのにどのくらいの時間を必要とするのか計算しているから、人影を探すにはまだ早すぎるとわかっている。
(直ぐに表れたとしたら、瞬間移動だよ)
そう思うものの、カトルはソワソワとする。
乗客が徐々に流れ始めた。
人込みの中でも確実に彼を見つけようと、カトルは頭の中にトロワの姿を思い浮かべる。長身で端正な顔立ちのトロワは、周囲から浮き立つこと請け合いだから、わかりやすいはずだ。
――――見つけた!
そのときには、既にトロワの視線はカトルにあった。
カトルを発見しているのだから、トロワが間違えて他所に行ってしまうような心配はないが、やってしまう動作がある。それは大きく手を振ること。自分も相手の存在に気が付いたと、知らせているのだと言えなくもない。
トロワに向かって自分の場所を示すように、にこやかに手を振りながらカトルは、
(また僕の負けだ……)
と、頭の中で“待ち合わせにおいて、どちらが先に相手を見つけるか”について、一つ黒星をつけた。
「トロワ、おかえりなさい」
「ただいま、カトル」
強く抱擁したい衝動を指先に集約して。二人は人目にもつかない――降ろされている両者の手が、動作の中で微かに当たったようにしか見えない――そんな、さり気ない仕草で、軽く指先を触れ合わせた。
ドキドキとしていた原因の一つだった冒険について、直ぐにトロワから評価があり――頓着しそうにないトロワのことなので、反応さえないのではないかと、少し不安に思っていたカトルは大いに満足した。
似合うと言われただけで、照れ臭さで、顔が色を付けながら熱くなるのを、カトルははっきりと感じていた。自分の目から見てカッコイイと思うトロワから褒められるのは、誰に何を言われるよりも嬉しいのだ。
「もしも、ウィナー家もプリベンダーもなかったら、カトルは何がしたいんだ?」
会話の流れの中でトロワがそんなことを言った。
「大きくなったら何になりたいのか? って感じの質問だね。うまくできるできないはこの際考えなくていいのかな。……だったら、――僕は、トロワ専属の家政婦さんになりたいなぁ」
単純に、
「一緒に居られて。トロワを支えることができて。トロワの役に立つポジションのような気がしたんだけど」
カトルは名案だと思った。
告白されたも同然のトロワは、虚を突かれたのか――ミリ単位以下の変化かもしれないが、微かに瞳を見開いていた。
「……意外なことを言うな」
「そうかな」
トロワも満更でもないはずだ。だけど彼は精神的に余裕があると、少しひねくれたことをいう傾向がある。
戯れの気持ちか。強引に可愛く表現すれば、言葉でじゃれているのかも。
「お前の事だ。てっきり、探偵にでもなりたいと言い出すんじゃないかと思っていた」
カトルが好奇心旺盛なところから、トロワはそう思ったのだろう。
「探偵ならば、今だってなれるだろ」
腰に手を当てて、ふふんっとカトルは笑う。本人は冗談で言っているつもりだが、聞いた者は『カトルなら確かに、この瞬間からでも実行できる』と、納得しかねないということを念頭に置いていなかった。
「それを言うなら家政婦も同じだろ。それに言っておくが、お前の希望する立場だと、私的な感情も抜きとうことになるぞ」
「それは、……つまらないよ」
「膨れるな」
「トロワは、ワ・ラ・ウ・ナ」
「被害妄想だな」
軽く口の端を上げて笑ったあとに、トロワはフォローのように付け足す。
「今、言った条件は、すでにカトルは満たしていると俺は思うんだがな。それ以上の立場だろ。“共に在り、支え。何よりカトルは愛されている”――なにか不満か?」
お芝居のような台詞に、カトルは何度も頭を横に振る。
髪の毛が元気に遊んでいる。カトルはまるで、でんでん太鼓のようだった。
車に向かいながら他愛のない会話をし、トロワが特に疲れておらず、荷物がバッグ一つと身軽だったこともあって、帰る道すがら食事や買い物をしようということになった。
助手席にトロワを押しやり、来しなと同じようにカトルが車の運転席に座った。
空いた道路を制限速度で走るのは苦ではない。スムーズに滑っていくのは、車の性能、はたまたカトルの腕がいいせいか。
流れていく景色に目を向けているトロワの気配に、カトルは前を向いたまま、にっこりと微笑んだ。
「たまには、人任せっていうのも、いいもんでしょ?」
軽やかなカトルの声に、トロワは口許を微かに緩めたようだった。
「カトルになら安心して命を預けられる」
「大げさだなぁ。それって、愛情表現に基づいたジョーク? それとも単に、身の危険を感じてるってわけじゃないだろうねぇ」
「もちろん前者だろ。ただし、冗談じゃなく、あくまで本気なんだがな」
今度はカトルが笑う番だった。
今、トロワとカトルは、L4コロニーで一緒に暮らしている。トロワはサーカスの巡業で長期に渡り家を空けることもあったが、必ずここに帰ってくるという、誓そのもののような“家”という箱が、離れている間のカトルの不安を打ち消してくれていた。それはトロワも同じことだと言っていた。
カトルもウィナー家の当主として手腕を発揮していたが、以前とは違い、『人材育成の意味合いも込めて』という考えもあって、休暇もそこそことれるようになってきていた。
休みを合わせ、今日からしばらくの間、ゆっくりと二人で過ごすつもりだった。
二人は仕事の傍らプリベンダーのほうにも関わっていたから、いつなんどき呼び出されるのかわからない。だからこそ、二人の時間を大切にしていたのだ。
まだ、日が沈みきらないうちに家に帰りつくと、ドアが閉まったのを合図に、トロワとカトルは唇を重ねていた。
公衆の面前では、節度をもってベタベタすることのない二人だが、当人たちしかいないとなれば話は別だ。
耳をそばだてる輩がいなくても――どうやら、手で覆うという動作が身についていないから、そうなるだけなのだが――トロワの肩におでこをくっつけて、内緒話をするカトルがいるし、会話の最中につまみ食いするように、カトルに口づけるトロワがいる。
必ずしも疲れを癒すためだけにベッドはあるのではなく、渇きを癒すための空間としての役割を担うこともある。
離れていた時間は長くて、当然のように、性急にお互いを求める行為へと雪崩れ込んでいった。
† † †
深い眠りから覚醒をはじめる。
シーツをすっぽりと被って、カトルは心地好いけだるさの中、まどろんでいた。
身体の左側でトロワの体温を感じながらのそれは、至福としか言い様がない。
「ん……んん」
寝言のような声を漏らし、カトルは傍らにいる人に甘えた仕種で、すりすりと身を擦り寄せた。
「カトル」
トロワは先に目覚めていたらしい。
返事の代わりにカトルは、綺麗な筋肉のついたトロワの肩口に頬擦りをする。口を開けるのが億劫なぐらいだから、噛みつく元気はまだなくて、微かに唇を皮膚に宛てただけになってしまった。
トロワの肩に唇を寄せたまま、カトルは動きを止める。
「カトル」
声のトーンから、「起きてくれ」とトロワが言っているのだと感じたカトルは、視線を合わせようと、眠い目をこすりながら、なんとか僅かに瞳を開いた。
しかし、目覚めると同時に、カトルは未だかつてない事態に遭遇することになる。
「何をしているんだ?」
「……えぇ?」
「カトル、お前は、何をしているんだ?」
トロワの口から飛び出したのは、奇怪な言葉で。浮かんでいたトロワの表情は、カトルが一度も目にしたことがないものであった。
何をしているのか? と、言ったが、どうして自分がカトルと同じベッドで眠っているのかと、トロワは質問したかったのだ。
あまりに密着していたから、彼なりに動揺していたようで、「どうして、こうなっているんだ?」ではなく、カトルに疑問の全てをぶつける形になってしまった。
お互いの意思で結果があるとは思えず、カトルがなにかを行い、今の状況に至ったのだと思ったのには理由があった。
トロワにはカトルとこうして二人で居る経緯が、まるでわからなかった。質問が示唆しているが、記憶喪失の経験(?)があるトロワだが、またしても、目覚めると、すっかり記憶が欠落していたのだ。
カトルを混乱させたのは、以前のように全てが抜け落ちでいるのではなく、カトルとの特別な関係だけをトロワは覚えていないとわかったからだった。
ガンダムのこと、他のパイロットのこと、もちろんカトルのこともわかっているくせに。これはどういうことだろう。
今のトロワからすると、仲間であるカトルと同衾しているという状態は不自然極まりないのだ。
いい歳をした男同士が、いくら広いベッドだというものの……。
ただ、並んで眠っていればよかったのかもしれないが、カトルがぴったりくっついていたから、違和感を大きくしたのか。華奢な身体にそっと添えていた自分の手の位置に、トロワは困惑したのか。
トロワの立場になってカトルは想像してみる。
朝起きてデュオと抱き合って眠っていたら?
いくら人懐っこい彼が相手でも、カトルだってびっくりするに違いない。
トロワの驚きを考えると、どうしていいのかわからなくなって、カトルもとっさに、成り行きで、ざこ寝しただけのように振る舞ってしまった。
「そうか、カトルは寝ぼけていたんだな」
と、強引に自分を納得させようとしているトロワを見て、カトルは妙にせつなくて、子供みたいに泣き出したくなった。
カトルにとって救いだったのは、トロワが眠ってしまったカトルに衣服を着せてくれていたこと。
これで、素っ裸では、さすがに繕いようもなかったろう。素肌を重ねた状態で「何をしているんだ?」と言われたら、カトルはショックで寝込んでいたかもしれない。
そそくさと乱れた衣服をかき集め、トロワに背中を向けながら、袖を通さずに済んだのだ。最悪の状況は回避できたということを、打ちひしがれながらもカトルは理解していた。
リビングに広がる珈琲の香り。
いつもならば穏やかな時間を演出するものであるはずなのに、リラックスさせるはずの香りを押しのけ、空気は奇妙な緊張感に支配されていた。
膝の上に乗せられていたカトルの両手は、無意識で強く握りしめられていた。
異常事態が夢であるように願いながら、カトルはまじまじとトロワを観察する。
理知的な口許、すっと通った鼻梁。深い色をした翠の瞳。それは紛れもなくカトルの大好きなトロワ。
ソファーに腰かけたトロワは、カトルの良く知るトロワで。カップを口に運ぶ仕種もいつもと変わりないのに……。いっそ、大掛かりな嘘だと白状してくれないものかとカトルは願っていた。
長い前髪を透して覗くトロワの翠の瞳を見つめる。ほんの少し前まで、あんなにも熱の籠った瞳でカトルを見つめていたなんて、静かすぎる今は想像もできない。
白い光が空を包み始めたことを閉めたカーテンの色が変わっていくのを見て、カトルは感じていた。気を失うように眠りについたのはそれくらいの刻(とき)。
二人でここに帰りついてから、何度キスをしたのか、何度トロワが甘い言葉を囁いてくれたのか、無数すぎてわからないが、衣服に隠された肌に浮いた証拠なら、数えることができるだろう。
綺麗さっぱりカトルとの関係を忘れ、仲間に対する接し方に終始するトロワを前に、もしかすると自分のほうが『トロワと僕は恋人同士』だと、思い込んでいる、妄想癖の人間なのかと不安になりさえする。
カトルを今、支えているのは、記憶や余韻、その躰に残り香のように焚き染められた感触ではなく、確かな行為の痕跡だった。
カトルはぎゅっと自分の身体を抱きしめる。
カップに口をつけ、慣れない珈琲で唇を湿らせた。
本当のことを言うか言うまいか迷った挙句、カトルは決心をした。
「トロワ、君はここで僕と住んでいることも、覚えてないんだね。おかしいと思わない? どうして僕とトロワが二人で暮らしているのか、疑問に思わない?」
自分が「仲の良い友人と一緒に暮らす」ような性格はしていないとトロワ自身よくわかっているから、ここが自分の家だとカトルに教えられたときから、違和感を抱いたようだ。いくら考えてみても、今の状況を上手く説明することはトロワにはできないだろう。
だけど、適当な言い訳をして、カトルが二人のことを黙っていれば、トロワの中ではそれで辻褄が合っていくのだ。
それなのに、穏やかな水面を波立たせるように、無理に思い出してもらおうとするのはいけないことなんだろうか。
内容が内容であるだけに、トロワがすんなりと納得するはずがない。事実を受け入れず、拒絶するかもしれない。彼が苦悩するようなことになったら、カトル胸が引き裂かれる思いをするだろう。
そうわかっていても、微かな可能性に掛けたかった。カトルにとっても辛い選択だが、何もせずに失うことのほうが、もっと怖かった。
「君と僕の関係は、ただの友達ではなかったんだよ。……トロワ、本当に忘れてしまったの?」
本当はもっと整理された、婉曲な表現を使いたかったのに。つたない言葉しか出てこない。
結局流れ出してしまった涙に、カトルは続きをなかなか話せなかった。
頬に固い指先が触れて。トロワの声が間近で聞こえた。
労わる響きは哀切を募らせる。
こうして傍にいてくれるトロワが、カトルと育んだものを忘れてしまっていることは疑いようもない事実。触れてくれるトロワの中に、自分は居ないのだと思うと、カトルの胸は締め付けられたように痛かった。
「泣くなカトル。……泣かないでくれ」
そんな言葉さえ、カトルの涙を止めることはできなくて。トロワの意図と反して、カトルに大粒の涙を溢れさせるだけだった。
† † †
トロワが家にいるときは使うはずのない自分のベッドの上で、カトルは目を覚ました。
一睡もできないかと思ったが、泣き疲れたのか、思いのほか深く眠っていた気がする。
外の光がカーテンを透り侵入して、部屋は間接照明を灯したような明るさだった。
室内の明るさで、太陽がとっくに高い位置まで昇っていると知った。
寝返りを打ち、カトルはシーツにくるまったまま。頭の中には昨日の情景がぐるぐると回っている。
あれから、まだ一日。昨日は結局、あれ以上何も言えなかった。
敗因は泣いてしまった瞬間に、頭が真っ白になってしまったこと。
トロワが完全に記憶を失っていた時は、かいがいしく動き回ったカトルだが、今回はカトルがいなくても、トロワは不自由を感じない状況だったから、かえってどうすればいいのかわからずに混乱してしまった。
うまく接することができずに一日を過ごしてしまったが、それでは物事の解決にはならない。いつものようにしていたほうが、トロワも落ち着けるはずだ。
(……がんばろう。……がんばろう……)
気持ちを奮い起たせるため、カトルは呪文のように唱える。
一緒に暮らすようになってから、ベッドが二つあるのは無駄だと思っていたが、そうでもなかったらしい。皮肉なことに、こうして役に立っているのだから。
(ベッドが一つしかなかったとしたら、トロワはどんな顔をしたんだろう)
そんな友人同士の同居はありえない。
(いっそのこと、本当のことがわかって、よかったのかなぁ……)
カトルはベッドに横たわったまま、カーテンの隙間から漏れ射す陽光を見つめている。
強く照りつけ、時に雲の影響で陰る。電灯の力を借りていないぶん、自然光が絶え間なく変化していることがよくわかった。
トロワはもう目を覚ましているだろうかと、カトルはぼんやりと考えた。
ゆっくり眠れただろうかと思った瞬間、別のことが頭を掠め、カトルは急に起き上がると、慌ててトロワの寝室に向かった。
ノックしながら数度呼びかけるが無反応。
「トロワ、開けるよ」
カトルが寝室へ入ると、案の定、そこからトロワの姿は消えていた。
「……トロワ」
脱力しカトルは膝を折りそうになった。
おそらくカトルが眠っているうちに、音もなくトロワは出て行ってしまったのだ。
「ずるいよ、トロワ……」
カトルは表情を歪め呟いた。
悲しくて、寂しくて。その奥には自分への怒りもある。頑張って、自然の振る舞おうと決めていたのに。
『サーカスに行ってしまうの? 君はそうしたいんでしょ』
トロワが居づらそうに見えたから、昨日、カトルは彼に言ってしまった。本当はどこにも行って欲しくなかったのに。だからこそ逆に、カトルにそう言わせたのだ。
丸裸で孤島に置き去りにされたような心細さに、
「……捨てられ、ちゃった」
そう口をついた。
震え、泣き声よりも力ない声だった。
こういう時は項垂れるものかとおもっていたのに、カトルは涙が伝うのを塞き止めるよう仰いでいた。
しかし程なくして、
「やっぱり、ここか。物音がしたから、そうじゃないかと思った」
声に目を見開く。カトルの背中に聞こえてきたことは紛れもないトロワのものだった。
幻聴ではないと思うのは、鼓膜が振動を受けているから。
ゆっくりと振り向いた。
「トロワ……」
どんな情けない表情を受かべているのか、カトルには想像する余裕もない。ほっとして、また、芯棒がなくなったみたいに、身体がぐにゃぐにゃになりそうだった。
目の前のトロワの表情はやわらかく、まるで微笑を向けられている気持ちになる。瞳を細めてもいないのに、優しい。それは彼の翠の色をした瞳のせいかもしれない。
「昨日は気分が優れないようだったが、ゆっくりと休めたか?」
労わられるべきはトロワのはずなのに。
頷くカトルは、まだ虚ろなままだ。
「トロワは眠れたの?」
「心配ない」
「それじゃあ、わからないじゃないか」
カトルは補足を求めたが、トロワは言葉を補おうとしない。
「……平気だった?」
上目使いでカトルはトロワの瞳を見つめ、小さな声を出した。
「何のことだ?」
一人寝は寂しくなかったの? なんて、カトルが口にするわけがない。
問い返すトロワを見て、カトルは、
(やっぱり、僕とのことは忘れてしまってるんだ)
と、改めて感じてしまう。
「食事は摂れるな。カトル、ダイニングに来い」
カトルはトロワの背中について歩きながら、どうやって今日は過ごしたものか、方針を検討し始めていた。
ところが、頭の中で用意した行動プランは無意味に終わることになった。
食事が終わるのを待っていたかのようなタイミングで、プリベンダーからお呼びがかかった。
■It continues.■