purity
【 process――step 1 】
特別に交わす言葉や新しい話題があるわけではないが、無性に会いたくなる時があって。
その顔を見るだけで、満たされてしまう。
用事なんて初めから無くて。
それは……。
作り話の中にだけあることだと思っていたのに、笑ってしまうけれど本当にそんな事があるんだと知った。
夜空。仄明かりの中、静かに佇む、見間違うはずもない華奢な人影。
どうしてこんな時間にここを訪れたのか。トロワは考えるより早く、カトルをトレーラーハウスの中へと招き入れた。
「急にどうしたんだ。なにかあったのか?」
驚くトロワの声を聞いて、瞳を合わせただけで、カトルは無性に嬉しくなった。
声が心に沁みた時、自分がそのためだけに来たのだと知る。
自分がどれだけトロワを好きなのかと自覚して、照れ臭くて負けを認めるようで癪な気もした。でも、言い訳なんて思いつかないし。突き上げるような感情は、すべてがない交ぜになっていて。
カトルの表情は複雑で。
ただ、そこに浮かぶのは、せつなさ……。それ以外にひと言で表すことのできる言葉など存在しない。
彼への特別な感情が芽生える前は知らなかった、眩暈にも似た強い衝動が込み上げる。
……人は何故こうも、深い心情を抱くのか。
溢れそうなのは、声と、微笑(えみ)と、泪。
曇り。憂いた顔は、薄闇の中に浮かぶ月の光りのよう。
儚く、水面(みなも)を音も無く滑る、波紋に乱された肖像を見ているような危うさ。静けさを取り戻した時に、消え逝きそうで。腕を伸べて掴まえなければ。
カトルを初めて見た時から変わらない、トロワの中にある渇望が呼び覚まされ。トロワは儚いその姿を現実に引き止める為に抱こうと、カトルに近付いた。
ゆっくりと近付いてくるトロワを瞳に映したままで、動けずに眉を寄せた。溢れるカトルの笑みは、泣き出しそうなほどせつなく滲んでくるから。
隠せずに口ごもった後。カトルは笑い混じりに言った。
「なにもないんだけど。すごく君に逢いたかったから。……顔を見ただけで、ほっとした。急に押しかけてしまって、ごめんなさい」
自分を誤魔化しきれないから。ありのままに告げるしかなかった。
笑われるか、変な顔をされるか。それでも構わない。
半分はそういう覚悟もしながら、カトルはトロワの瞳を見て微笑んだ。
「……俺も、カトルと同じようなことを考えていた」
理知的な唇から零れ、外気に触れた深く静かなその声は、真摯な響きを隠しもせずに、受け入れて正面から答えを返した。
笑ってくれても、よかったのに……。
それはカトルの本心ではなく、自分への戒め。
家族以外の何人の人間に、そう心から言って貰えるだろうか。
自分と同じように、彼もまたうら悲しい気持ちを抱えていたのだと知って。静かに呟かれたトロワの、偽りではない言葉がカトルを包む。
その言葉の生まれ出たところにあるのは、やわらかな感情以外のものであるはずがない。そう思うだけで、ただ幸せだと思い、安らいでいく。
疑うことなんて知らないから、トロワの言葉をカトルは鵜呑みにしてしまう。
だけど、どれだけ絆(ほだ)されても、いつもそこにあるのは、トロワの慈しむような瞳。全てを注いで想っても、木霊するように返る響き。
愛しても、愛しきれない。大好きで。彼に巡り会うためにこの世に生まれ出ることができてよかったと、心からそう思える。
トロワが心魂(じぶん)の全てを求めて、存在を肯定してくれたから。存在意義が彼の中にあるのなら。カトルは厭(いと)わしく嫌悪するこの身までも、彼を繋ぎ止めた御霊だと思うと……愛しくなる。
カトルは照れ臭くて、はにかむように笑ってしまった。
「嬉しい、よ……」
笑みの中で漸くカトルは途切れた声を出した。……その声は、泣き声のように擦れてしまったけれど。
トロワの胸が痛むほどに強く掴まれるのは、カトルが涙を零しそうだから、それとも涙を堪える姿が痛々しいからなのだろうか。
カトルの姿を見ていられなくて、トロワはその細い躰を抱き締めた。
急なトロワの抱擁にズキンと疼いたカトルの胸は、痛みではなく、甘さと喜びに濡れて。キュッと背中を抱かれて、なにもできずにカトルは立ち尽くした。
体温で生まれたぬくもりの中で、逢いたかったのは心細く不安で寂しかったからなのだと、寒さで痛かったからなのだと、触れて、触れられて、互いに気付いた。
過ぎた日に抱き締めたのは、時にはカトルの脆く壊れそうな心を繋ぐ、トロワの喪失からの恐怖を拭う、そのためだった。
切に願う自分本位な甘やかな感情を忍ばせた、本当の意味での抱擁ではなく、癒しのための――相手の心を守る、庇護し、その存在を受け止める――抱擁だった。
今こうして沈静な日常を得て、それでも燃え立つ焔は消えず、激動の中での昂ぶった一過性の想いではなく、普遍的な確かなものだと。離れて、冷ましようのない熱だと、トロワははっきりと確信した。
わかっていた答えだったが。朧気なままで、手に入れられるような人ではなかったから。
変わらぬ想いが同じならば、もう、ためらう必要も堪える意味もない。
押さえ込み続けていた、カトルへの渇望を抱える自分のために、その最も愛しい人に触れる行為。
強くあろうとしていた気丈な少年は、傷を負い続けていたから、求めれば壊してしまいそうで、遂げられずにいた。……愛していたのに。
初めて二人は純粋に、強く求めたお互いのための抱擁をした。
【 process――step 2 】
コロニーにおいても設定された気候が、地球のそれのように年間を通して巡っていた。
季節は移ろい、風に肌寒さを感じるようになった頃。
戦争終結後、トロワとカトルが逢ったのは数度目のことだった。
逢うと言っても、まともに時間が割けた事は今日が初めてで、今まで顔を合わせるといった程度の邂逅しか果たしていなかった。
いつも、ほんの短い時間にお互いの元を訪れ、翌日の仕事のことを考え、夜更けになるのをさけて帰路につく。そういうことが何度かあっただけだ。
だから……今日一日ゆっくりと逢えるというだけで、カトルは嘘のように嬉しかった。
放っておけば、いくらでも私的な時間がなくなっていく多忙な人間が、たまたま二人の休日が自然と重なる日を待っていたのでは、そう簡単に会えるはずがない。
トロワもカトルもお互いに、自分にしかできない仕事を持っていた。だからこそ余計に、自分がそうであるように、相手が仕事をおろそかにできないことを十分に理解していた。
自分のほうはなんとか会いにいく予定を入れることができても、相手は無理だろうと気を遣いすぎていたのだ。時には押してみるということも重要なのだが。慎み深いというのは美徳だが、時として臆病すぎて進退が窮まってしまう。
結局、痺れをきらせたのはカトル。
切り出してみれば、他愛無く約束ができた。トロワにいつにましても渋い顔をされてしまうかもしれないと、腹を括っていたのだが。あっさりといとも容易く快諾され、拍子抜けしてしまった感もあった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
一日といっても実際は数時間程度。暗くなるにしたがって、別れの時間が近付いてくると、否が応にも思い出す。
もう少しで、今日はお別れ。
いつでも気軽には逢えないと分かっているだけに、次は一体いつ逢えるのだろうかと、カトルは別れる前から寂しくなった。
肩がほんの少しぶつかっただけだった。一緒にいて触れてもいない。
こういうものだよね……。
納得はしながらも、手くらいは繋げば良かったと、カトルは残念に思い、直ぐにはっとして、女の子みたいだ……と、一人赤くなった。
ペチペチと頬を叩いて火照りを冷ましながら、こんなことを考えてしまった自分はおかしいのだろうかと、ますますカトルは考え込んでしまう。
歩調はいつしかゆっくりとなり、半歩前にいたトロワとの距離が広がった。
口許に握った手をあてて、なにやら没頭してしまっているカトルを観て――人からは些細過ぎて分からない程度にだが――トロワは軽く首を傾げた。
これは思考がぐるぐると回っているときのカトルの癖だ。こんなことを言えばカトルは膨れてしまうだろうが、利発な子供が丸いケーキを上手に三等分する方法を考えているような風情もある。本人の真剣さは伝わるのだが……それだけに可愛いのだ。
「どうしたんだ、カトル」
カトルにむけるトロワの口調は、殊更穏やかなものになる。
「……へっ?」
自分の意識が遠くに行ってしまっていたと、初めて気がついたカトルは、トロワの声で現実へと復帰した。
他の人間が聞けば眼をむきかねない、トロワの甘く優しい問い掛けの声も、カトルは半分も聞いていなかった。カトルにしか発揮されないこんな声色も、当の本人が聞いていないのでは無意味なものだ。望んだところで他者は聞けるはずがないものなのに、カトルには惜しいとしか言い様がない。
それでもカトルは、視線を合わせたトロワの瞳に、蕩けそうになってドキドキしている。覗き込むようなトロワの視線に、首を縮めるようにして肩をすくめてしまった。
上の空にもかかわらずこの調子では、きちんとトロワの声を聞いたときには、カトルは一体どうなってしまうのだろうか。
風が火照った頬を掠めたとき、寒さが苦手なカトルは、あと一枚なにか着てくればよかったと少し後悔した。
「何か考え事をしていたのか?」
勿論、探るつもりでトロワは言ったのでは無い。カトルが他に話を逸らそうとすれば、それでこの会話はお仕舞いになる。逆にぽろりとでも何か溢せば耳を傾ける。それだけのことだ。カトルにもそう分かっていたが、今考えていたことが喉元まで出掛かっていた。
「いや、あの、ね……」
正面から言うような内容なのだろうか。でも言いたいのも事実で。悩んでいるだけで顔がまた熱くなってくる。
なかなか言葉を発することができないカトルに、トロワは痺れを切らせるわけでもなく、黙って観察するようにその顔を見つめている。実際には困ったような素振りのカトルをかなり興味深く感じて、苛めるつもりは毛頭ないのだが、しばらくこのままいようと、トロワは善からぬことを考えていた。
「ぅうんと……あの……」
カトルの心情を体現してか、指先もそわそわと動き出す。言いたいけれど上手く言えない。そんな思いははっきりと伝わっているのに、まだトロワは助け船も出さずに、静かな瞳だけをカトルに向けている。少しでも不敵な笑みでも浮かべているほうが、大分と分かりやすくてましに違いない。
トロワと視線を合わせると、カトルは口ではなく瞳を大きく開き、覚悟を決めたように「んぐっ」と生唾を飲み込んだ。そうして、小さな唇を少し緩め……また、きゅむっと強く結んだ。
心持ち眉を寄せて、口を尖らせたかと思うと。
「……もう、いいよ……」
白金の髪で陰を作り、顔をトロワの視界から隠すように、とうとうカトルは俯いてしまった。
内心は大慌てしているトロワだが、余裕めいた態度にしか見えないのは、得なのか損なのか。
拗ねさせてしまったな……。
他の人間には決して見せないような、子供染みた素直な感情の表現を自分に見せるカトルを見ていると、無性にトロワは嬉しくなってしまう。
こういうカトルを見るのも可愛くて大層好きなのだが、あまりに度が過ぎては収集がつかなくなる。眼を細めて唇の片端を少し上げ、トロワは微笑を洩らした。
どうやってカトルの機嫌を取ろうかと、トロワが思案するよりも早く、二人の仲を取り持つように、気の利いた風が起こり。肌寒さに肩を震わせたカトルを、トロワはそっとその胸に抱き寄せた。
ほんの少し尖ってしまったカトルの気持ちは、そうされただけで、まあるく柔らかになる。トロワの腕の中に納まって、おとなしく息を潜めている。
内心はカトルの胸は突然の抱擁にドキドキと騒いでいるのだが、緊張で身体が固まってしまったのだ。よく見れば、カトルはぱちくりしながら、本来なら澄み透るように白い肌をした細い首筋まで、桜色に染めている。
全てがしっくりと馴染む。いつまでも華奢な躰も、体温も、心も、甘やかで。これ以上の存在はないとトロワは心から感じる。
抱き締めて。いつもより長く。抱き締めたままで。
そのとき初めて。
「……カトル」
極近くカトルの瞬く音まで聞こえそうな、そんな近くで。トロワは静かに、それでも熱の籠もった声で呼びかけた。
それに応じるように、視線をゆっくりとカトルは上げて。
「トロワ……」
頬に添えられた手が、微かに上向くようにカトルを促し。
ゆっくりと近付いてくる、翠の瞳が綺麗だと。カトルは呆然としながら、震えそうな躰を嗜める。
……わかる、きっと……。
今、自分たちが自然と行おうとしていることは……。
怖さはなかった。胸が騒ぐのは初めてだから。不安だからだ。
でも、大丈夫……。
こんな間近にトロワの瞳を見るのは初めてだと思ったとき、改めて恥ずかしくなってカトルの体温は一気に上昇し、全身が桜の花びらのように、ほんのりと色付いた。
息が苦しいほどの緊張。指先が痺れ震えだす。
しかし、それでも離れずに、長い睫毛で碧の瞳を隠すように眼を伏せ、大きく響く自らの鼓動だけを聴きながら、カトルは静かにトロワを待った。
もう一度、愛しげにトロワはカトルの名を呼ぶと、その吐息のような囁きが、カトルの肌を優しく撫でて。
濃い白金に縁取られた瞼がふるふると震え。
初めて。
唇が、微かに触れ合った。
伝わる確かな熱。
眩暈にも似た情動。それは、カトルばかりではなく、トロワも……。
体温が触れたと感じたその瞬間、カトルはより一層強く眼を閉じた。
■It continues.■