purity
【 process――step 5-1 】
白い雪が降るのを窓越しに見て。暖かな部屋は外の凍てついた空気など、微塵も感じさせない。
急にとは無理だろうが、春になったら一緒に生活を始めようと約束を交わした。これは事実上の婚前旅行だと、トロワは無表情の仮面の下で気合十分で意気込んでいたのだが……。
ついに本題には触れず仕舞いで、四日目の夜を迎えてしまった。
大晦日、なにやらカトルはヒイロから小耳に挟んでいた、とある地域の年末年始の過ごし方に興味を持ったようで。それを実践するためか、今、テレビをつけて『紅白歌合戦』という――旧世紀から長きに渡り続いてきた伝統ある――番組にカトルは釘付けになっていた。
滞在先のここも、情報ソースはヒイロだった。
深深と夜が更けて。
出演歌手もカトルが知るわけがないだろうに、どうしてそうも熱心にじーっと画面を見続けることができるのだろうか。視線を注ぐべき相手が違うのではないかと、トロワは内心その箱に嫉妬さえ覚える。
情緒ある和風の佇まい。畳敷きの一室に一枚板の重厚な木のテーブルを挟んで。テーブルの向こうとこちら。テレビのすぐ側に座り込んでいるカトル。そして、テレビではなく人の後頭部ばかりを見ているトロワ。
じーっとではなく、トロワが下からねっとりと視線を這わせたところでカトルの意識は……。
鈍いのだろうか。
カトルからすれば、トロワと一緒に居るのだから、気を張ることを忘れているのだが。その安心させてくれる、大好きな彼からの意味のある視線さえ気付かないとは。
初日はよかった。
用意されていた抜群に糊のきいた浴衣。その着方がわからないというカトルに、トロワは一から教えてやったのだ。ただ、腕を通して前を合わせ帯を結ぶ。それだけのことなのだが、カトルは、
「やっぱりトロワはすごいやぁ。なんでもできちゃうんだねぇ!!」
と、はしゃいでいた。
特別な人にキラキラとした瞳で見つめられるのは、小さなことが理由でも満更でもない気持ちになってしまう。――これで満足していてはいけないのだが――それに、もう少しオマケもついて収穫としては素晴らしく。
落ち着いて、二度目のキスもした。
切っ掛けは一体なんだったのか。覚えていないほど些細で自然な。
それとも、そうだった気がするのは、意識がそのとっておきの出来事にのみ集中してしまったためだろうか。
近付いたトロワの浴衣の袂を、カトルが引いた。
見つめる瞳は、深く透明に澄む、美しい大気と水を湛えた地球の碧。
そこに重力があるように惹かれ。……引力で、落ちた。
ただ触れ合って。離れ。もう一度、しっとりと唇を重ねる。
動かずに体温を味わう。
息を止めてのそれには限界があり。
「……ん……ふっ……」
カトルが小さな声を洩らして、苦しげに軽く身を引いたのを合図に、ゆっくりと惜しむように二人は離れた。
離れると同時にカトルは、
「ぷはぁ~……」
と、大きく息を継いだ。
あからさまに息を止めていました。という態度は苦笑いも洩れるが、トロワからすれば勿論、嫌な気はしない。
朱を濃くし桃の花の色のように馨しく染まった顔を見れば、それが息苦しさのためばかりではないとわかるから。
カトルの不慣れな様子に満足感と安心感を抱いてしまい、『初めて』ということにまで固執していることにトロワは気がついた。
そういうことに拘るとは、到底、昔の自分からは想像もできない。他人のことに干渉することは悪趣味だと思いもし、そういう部分を持ち合わせていなかったのだが。ただ唯一、専有したいという欲が出たとき、カトルについての自分はそうではなくなってしまったのだ。トロワは無表情のままだったが、内心で、カトルに対する独占欲で、はちきれそうになるときがありすぎた。
地味にしか表情を変えないトロワであるが、それもカトルの一挙手一投足に左右されたときのみ変化する。
共に穏やかな時間を過ごしていると、自然と表面に現れるトロワの表情は、カトル以外のものでは引き出すことのできない柔和なものになる。なによりも奥深い想いの具現。
トロワの視線が自分にあることに気がついたカトルは、恥じらい目線を逸らせて、ほんのり笑ったあとに、無意識下で解放されたての唇を擦り合わせ。控えめな口許をゆっくりなぞるように、その表面を軽く指先で拭った。
初めてのとき同様、今の行為が夢を見ているようで、実感が湧かないのだ。残る余韻を確認しながら口許に触れると、自分の手で触れているのに、感覚が敏感になっていることにカトルは気がついた。
思わずカトルの慎ましやかな唇から、ほうっと小さく溜め息が洩れた。
幼い反応と視線を引き付けるようなスローな動作は、手招きされているようでゾクゾクとする。カトルに深い意味はなく、そういうつもりでは無いとわかっているトロワなのだが。逆に自然体の中での無意識の仕種だからそこ、カトルという存在が愛しくて。罪深くさえ感じてしまう。
いっそ、乱暴に組み敷ければいいのだろうが。出来るわけがない。自ら可憐に咲く花を手折ることなど……。
これまで辛抱してきたのだから、こうなれば怯えさせずに自然の流れでそうなりたい。
しかし、こういうシチュエーションはトロワの中ではまだ、不自然なのだろうか?
自ずからカトルの肩を抱くトロワの力が強くなり、痛くはないが窮屈で、カトルはもそもそと身じろぎ、上方にある大好きなトロワの端正な顔を仰ぎ見た。
「……トロワ?」
言葉少ないトロワの瞳は、優しい穏やかな翠。色はそのまま奥に秘めたる熱を映す。
この瞳で自分のことを好きだと囁いてくれたのだと、カトルの胸は焦がれる。
理知的な唇で、綺麗な彼は自分に触れてくれたのだと。今、起こったばかりのことなのに信じられないほど幸せで、くすぐったくなる。
「カトル」
声は、紡がれる声は、果てなく深く。蕩けるように心に滲みて。広がり渇きが潤されていくのがわかる。
カトルは深緑の瞳に吸い込まれそうで、眼が離せなくなるが、同時に見つめているのも辛くなる。苦しくて、こんなにも彼が好きなのだと、胸が吐息を零すから。
心持ち目線を上げて、トロワの視線から逃れるように、カトルは彼の微かな唇の動きを見つめていた。
きゅっと抱き寄せられて。
ゆっくりと距離を詰める。体温がうぶ毛にやんわりと触れるだけで、照れ臭くて、カトルは思わず俯いてしまった。
耐え切れず、しがみつく手に力を込めて、トロワの浴衣が皺になるのも構わずに、カトルは触れた布地をぎゅっと握りしめた。
無理にそんな恥ずかしげなカトルの顔は上げさせず、トロワの優しい唇は、柔らかな金糸の合間に見え隠れする、白い額に、厳かにそっと落とされた。
強く押していれば、そのまま、あれよあれよという間に本懐を遂げていたかもしれないが、トロワはあえてそれをしなかった。
生殺しのような状況でカトルと居るのは辛いことだが、急な展開を望むのは酷なような気がした。トロワはカトルの歩調に合わせ、二人でゆっくりいければいいと思っていたのだ。
禁欲的ないし虚無的。そう人に表現されるトロワでも、表面には現れにくいというだけで、カトルに対しては人並みの、もしくはそれ以上の強い衝動がある。晩生なカトルのリズムのせいで、タイミングをイマイチ掴めないという難儀なことになっているだけなのだ。
トロワと同じ状況になれば、聖人君子とそう呼ばれる人間でも、踏み外さないと言い切れるわけがない。トロワの心情を誰が理解できるだろうか。
雪山のてっぺんに丸裸にされたまま放り出され、目の前に無造作に投げ出された暖かそうな防寒着を見ながらも「このままで俺は大丈夫だ」と、うすらとぼけた虚勢を張って平静を装っているようなものだ。触ってもいいが袖を通してはいけない。それを着れば暖かだと誰の眼から見ても明らかなのに……。
凍傷か下手をすれば命までもが危ないが、なぜか我慢。
辛抱を続けるトロワに訊ねてみたいものだ。その布が自分からふわりと、己の身に覆い被さってくれるような、幸運としか言いようがないことが起こり得るのだろうかと……。
ときにむなしいことも考えながら、トロワは意味もなく耐え忍ぶのだ。
一日目にキス。ならば明日にはもう少し踏み込めるかもしれない……。
顔には悲しいくらいに表れないが、希望は尽きない。
小難しいことを思案しているような表情ではなく、もう少し単純に、でれでれと鼻の下でも伸ばしていれば、カトルも察するかもしれないが。
……もっとも、不気味がられる可能性も大いにあるが。
何もないのに……。
二日目の夜、カトルは二人の布団をひっつけてもいいかなぁと、言い出した。トロワの気も知らないで……。
「そのほうが安心するんだ」
カトルは弾む声で嬉しそうに呟いたが、トロワからすればとんでもない。
トロワも男だ。近付いたほうが、より強くカトルのことを意識してしまう。穏やかな寝息が聞こえる距離に身を置いて、無防備に眠る想い人の姿を見られるというのは幸せだが、体に悪いほど辛いのだ。
しかし、婚前旅行と期待している割には、トロワには妙な矛盾がある。
一歩分の距離を置いて敷かれていた二組の布団が、カトルの手によりずるずると引き摺られ、ぴたりと合わされるのを、トロワは複雑な心境で固唾を呑んで見守っていた。
昨日は昨日で「一緒に寝よう!」と、カトルの要求がエスカレートした。
自分の身が可愛くないのかと、人が聞けばなにが不満なんだと思われるだろう嘆きをカトルにむけて、トロワは今世紀最大級の辛い思いをしたのだ。
こちらの布団に潜り込もうとしたカトルに、トロワはまことしやかな嘘をついた。
「こう見えても俺は寝相が良くないんだ」
「んン?」
首をひねり、意外そうに大きく眼を見開いたカトルに、トロワはマヌケな補足説明を入れた。
「カトルはいつも俺より先に眠ってしまうために知らないのも無理は無いが、半径一メートル以内は危険地帯でなん人たりとも近付くことはできないんだ」
「……でもトロワ、朝見ると、普通に眠ってるよね?」
「途中で起きて体勢を立て直しているだけだ」
ゴロゴロ転げ回るトロワなんて想像できないや……。
ぽか~んと口を開けたカトルは、むぐむぐと口許を動かして、考え込む素振りをした。不満げに瞳をぐるぐると動かしている。
まさか本当かどうかヒイロに訊いてみる。などとカトルが言い出すのではないかと、トロワは内心で冷や汗をかく。
ヒイロが察してくれればいいのだが。ややこしい男の心情が、気心の知れた戦友とはいえ、伝わるものだろうか。カトルには今すぐ連絡をとるという、無茶はしないでくれと祈るように願う。
怒っているようにも見える苦渋の表情を浮かべるトロワに気付かずに、カトルはおずおずと言った。
「トロワになら、少しくらい蹴飛ばされてもいいけどな……」
「ッ!?」
別のことを考えていたのかとほっとするものの、トロワは違う壁にぶつかってしまった。
「少しくらい痛くても我慢するけど?」
語尾はトロワに承諾を求めている。
真の危険を知っても、トロワにならいいだなんて、カトルは屈託なく笑いながらおねだりできるのだろうか。
もし本当に寝相が最悪でも、カトルを誤って攻撃してしまうようなことは断じてありえないと、自信を持ってトロワは断言することができる。
だが、
『本当の敵は、眠った俺ではなくて、眠れない俺なんだぞっ!』
とは、さすがに言えない。
カトルがセーフディーゾーンだと信じて疑っていない男は、本当はデンジャラスな存在なのに。
とりあえず、危ないからと念を押す。
「どうしても、だめ?」
首を傾げて上目遣いに尋ねてくる、大きな無垢な瞳に翻弄されながら、トロワはカトルがあまり無理を言うのなら、別室で休むことにすると、脅しまがいのことまで言って寂しい瞳をさせてしまった。
ズキンと胸が痛む。良心の痛み。
トロワとてカトルをむげにしたいわけではない。できることならもっと傍で、その吐息に触れていたい。
「おやすみなさい……」
惜しむような瞳で呟いたカトルは、自分の眠る布団の端の端まで移動して、トロワの布団に入ってしまわぬように気を遣いながも、近づける範囲の近くに身を置き眠りについた。
睡魔に呑まれる寸前に、身を横たえたカトルはトロワを呼んで、不鮮明な声で、
「君のほうには入ってないからいいよね……」
眠気のせいで、いつに増しての可愛い舌足らずな、寝言みたいな声を零したのだった。
カトルがけなげすぎて不憫になり、抱き締めたい猛烈な衝動と、そこで抑止できなくなる危険の間で、いたばさみになる複雑な男がいた。
■It continues.■