purity
【process――step 3 】
ただ唇を重ね合わせるだけの子供染みたキスをした。
ぶつかったようなものだったが、本来は柔らかな質感の唇は硬く結ばれていて、恥じらいと緊張に震えを抱き。それでも。拒むことなく、うっとりと瞳を閉じた。このまま熱に押され、深みに堕ちてしまわぬように、トロワは渾身の気力で持ち直し、すぐに重ね合わせた唇を離した。
いつにも増して、真っ赤に染まったカトルはまだ強く瞼を閉じ、動けなくなっていた。そんな初心なカトルに心から愛しさを感じつつ、再び胸に抱き込んで、優しくその柔らかな髪を撫でた。
人の手はこれ程愛しげに愛を語り、優しさを込めた表情(かお)で動くものなのか。なによりも無口なトロワの繊手は、誰よりも雄弁にカトルへの想いを伝えるものだ。
恐る恐るとしがみついてきたカトルは、溜め息を零すような細い声で、トロワの名を呼んで、頬をその逞しい身体に摺り寄せた。
カトルを抱き締める腕に静かに力を込めながら、これはやはり収まるところに収まるべきだな俺たちは、などとトロワは確信を強くしていた。
すーっと息を吸う。止めて。
「……一緒に暮らさないか」
トロワは真剣な面持ちで、いつに増しても慎重に言った。それは、かねてから、カトルに伝えようと思っていた言葉だった。
カトルは声もなく固まってしまい、トロワが柄にもなく不安になったとき、漸く小さく答えが返った。
「……ぅん……」
長い間は迷いではなく、カトルの驚きによるものだった。
こんな幸せなことを告げられるなんて、考えてもいなかったから。否定なんて考えもつかない。夢みたいな言葉が嬉しくて掴めなかった。
特別華美な言葉でも新しい告白でもないシンプルなものだけれど、軽い気持ちでこんなことを言う人ではないから。
どれだけの時間、そのことについてが考えていてくれたのだろう。
それを告げたトロワの心が重くて、カトルは純粋に感激してしまった。
カトルが堪える暇もないほど性急に溢れ出る泪に、大きな美しい瞳は潤み、雫が溢れ。寒さも、伝う泪を拭うことさえも、カトルは忘れていた。
【 process――step 4 】
カトルの「雪が見てみたいな」の一言で、トロワは一大発起した。
無理ならいいんだが。やはり難しいだろうから。
という、肝が小さい台詞を織り交ぜて、カトルに年末から年始にかけての旅行を提案した。
トロワからまともに誘いを受けたのが初めてのカトルは、焦らすような勿体ぶった真似もせず、すぐその言葉に飛びついた。
何時もいつも、プライベートを削って仕事に明け暮れているが、実際はカトルから休みたいと言えば、周りの人間は少々無理をしてでも、喜んでその時間を割いてくれる。
休暇をとらなかったのは、カトルがついつい自分の抜けたあとを埋める人間の苦労を、考えすぎてしまっていたからだ。仕事を人に任せるという余裕が、カトルにはまだなかったからかもしれない。もっと人材を見出して要領よくすれば、もう少し人並みの生活が送れるようになるだろう。そこまで時間をとれるようになるのは昨日今日では無理だろうが、少しずつ休養をとれるようにはなるのではないだろうか。
カトルは初めて自分から、みんなにお願いをしてみようと、決心した。
甘やかな貌立ちをしているカトルは、特に仕事関係では人に軽んじられぬよう、普通以上に気を引き締めていなければならなかった。隙があれば、やはりもてはやされていても、所詮はお飾りの子供だと誹謗されかねない。少しのミスでも、それを待ち望む者の体よい材料になってしまうだろうから。
職務についているときのカトルは聡明な空気に溢れ、温和さの中に凛とした張りつめたものを感じさせる、人を指導する統率力を持つカリスマの象徴だ。私生活においてこんなにも抜けているとは……もとい、おっとりとしているとは、とても思えまい。
カトルは実生活においての常人ならしているはずの経験が、決定的に不足しているため、妙なところで一般常識が欠落してしまっていた。
例えば、自動販売機で物を購入する際、普通の人間ならば初めて見るタイプの自販機でも、無意識で学習している今までの経験で、コインの投入口の位置なども当たりがつくだろう。しかし、カトルの場合は、それが読んで字の如く『自動で販売を行う機械』だと知識として知っていても、使用方法がよくわからない。だからまず、説明欄の読破から始まってしまう。次に、まじまじと機械の表面を視線で撫で回し、見つけたコインの投入口でワクワクとした面持ちで……。
カトル本人は楽しそうに一連の動作を行っているため微笑ましいが、見ているこっちは何故かはらはらしてしまうし、赤の他人からは挙動不審者だと思われてしまうかもしれない。『はじめてのおつかい』を見守る保護者の気分とはこのようなものだろうか。
まず誤って事故になるというような心配は無いだろうが。自販機をひっくり返して下敷きになるとか……。それは無いと信じたい。この場合、倒された自販機のことは、トロワの眼中にないのは当然のことであった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
仕事の休みをもらいたいと、いざとなるとカトルはなかなか言い出せなかったが、話してみれば遠慮していたのがなんだったのかと思うほど、あっけなく七日間も休みが取れてしまった。ウィナー家の仕事をこなすようになってから初めての纏まった休暇だ。
手こずるかと思ったトロワのほうも……。
昔は無断でサーカスから姿を消したり現れたりと、勝手をやっていたトロワだが、少しは常識が備わってきたのか――今となっては本業となってしまった――仕事意識のあらわれなのか、一応の断りを団長と、なぜかそこにいたキャスリンにいれた。
不許可ではなかったが、すっかり生真面目に勤め抜いていたトロワの休暇願いは二人の好奇心を刺激したようで、そんな申し出をした理由を執拗に問いただされた。
隠してもしかたないことだと考え、カトルとの旅行の計画を明かすと、嫌にニヤニヤと二人に笑われた後に――見かけによらず気のいい団長は、一ヶ月でも二ヶ月でも行ってこいと気前の良い事を言って豪快に笑った。
「否、それほど長くは必要としない」
淡々と述べるトロワに、こんなときにも可愛げがない奴だと唖然とした団長を押し退けて、
「あなたの抜けた穴をしばらくは埋めるんだから、そのお礼にカトル君との写真をいっぱい撮ってきてね!」
ハートマークを飛ばすキャスリンから、意味不明の条件が出された。
旅行にこぎつけるまでの間に不穏なこともあり、トロワは風変わりな軍に潜入したりと、いろいろなことがあった。
年の瀬までには身辺整理をしたいと思っていたトロワからすれば、寝耳に水、どうでもいいから早く終わらせてくれと、どれだけプッツンと切れてしまいそうになったことか。
年内にはなんとかかたがついたが、これを機にガンダムを爆破しようということになった。
モビルスーツとは自らの武器となり、ときには身を守る盾となる。操縦者(パイロット)にとっては戦友であり相棒だ。命の遣り取りをする肉体と精神の極限状態。そのとき人は小箱(コクピット)の中でなにを見るのか。
生き抜くたびに愛機との絆は深まり、押さえ込まれていた昂揚感は口をつく。操縦者の共通点として独り言が多いのはそのためだろうか。
デュオはデスサイズを相棒と呼び、カトルは『僕の』サンドロックに語りかける。五飛は勝手にナタクと名付けた挙句に、自らの道を指し示す教えを求め。ヒイロはなにやらゼロと会話をしていた。トロワもその例に漏れず。普段極端に口数の少ない男でさえも、誰に聞かせるわけでもなく独り淡々と、ブツブツ、ヘビーアームズの中で戦況分析などを呟き続けていたではないか。
あの空間は身体の外であって心の中。自分の内になるのだろう。
そうなのだから、それぞれの機体に対する思い入れも人並みでは無い。
だから、時間を置いてためらってしまわないように、少しでも早いほうがいいと爆破する日を決めた。だが、それがトロワとカトル二人の旅行の出発日と重なってしまったのだ。
心残りを抱えたままで二人過ごすよりは良かったに違いない。胸に思いを抱いて、清々しい気持ちで旅立つことができた。
デュオと三人でガンダムを爆破すると、その足で二人は目的の地にむかったのだった。
二人はこれから向かう土地の気候のことを考えていた。だからコート。コートを着ていたのだ。
別段、デュオだけが暑がりの元気者だったわけではない。
一見、二対一の状態になってしまっていたために、そう見えたかもしれないが、真実は逆。あの気候に合っていなかったのは、トロワとカトルのほうだった。
格別寒い土地でもない地域に居て、気が早いとはこのことだ。
向かう先が暑い地帯であったなら、二人揃ってアロハシャツに身を包んでいたかもしれないわけである。
デュオは普段着にもかかわらず、彼を置いて心あらずの二人は、早くも寒さ対策にとコートを着込んでいた。
もはや二人を見送るセレモニーというか、それが最後の仕事になってしまったガンダムの心境とは……。
『僕のサンドロック』なら、涙を飲んでカトルの幸せを願ってくれるだろうか。
「これでまた俺は『名無し』に戻ったな……」
着込んだコートが哀愁に拍車を掛けている。実年令を遥か彼方まで追いやったニヒルな態度で、付け焼き刃では無い年季の入った呟きを洩らすトロワに、当然のようにそっと寄り添い、カトルは穏やかに微笑んだ。
「いいんじゃないですか。トロワは『トロワ』のままで……」
カトルに続いて陽気に同意するデュオの声も二人の耳には入らない。どうすればここまでマイペースにお互いだけを見ていられるのか。
コートのポケットに入れられていたトロワの片手を引くように、カトルが手のひらを添えると、ちゃっかりとトロワの手は姿を現し。カトルはその長い指を持つ大きな手のひらを、両手でキュッと握り締めた。
死角になる下のほうで、そんなことをやらかしている二人に気付かぬままに、デュオは一等お気に入りのカトルにアプローチを入れた。
「それにオレたちには帰る場所がある。――だろ?」
「ああ、そうだな」
返ってきたのは、ボーイソプラノの可愛い囀りではなく、冷めたテノール。
またしても……。話題を振った覚えのない人間から即答が返り、仲良しグループを作った覚えもないのに、三人で乾杯する破目になった過去を思い出した。
カトルと二人で時を過ごしたいデュオの願いは、成就されることはないのだろうか。その他にもカトルと親密になろうとするたび、事あるごとにデュオは、涼やかな美貌を携えた人物の妨害を受けているのだ。
表情は異常に乏しい男だが、トロワという奴はストレートな横槍をかましてくるとんでもない野郎だと、このときもデュオは心底から思った。
憮然としているデュオの心情など無視して、トロワの微笑の先にはカトル。そこもまた綺麗な笑み。
「ええ」
一緒にいよう……。
静かに応えたカトルの零れるような笑顔は、幸せをそのまま表したようで。
トロワが帰る場所とさす処がどこなのか、カトルにははっきりとわかっていたから。トロワの真摯な言葉を反芻し、思わず瞳が潤む。
何度思い出しても、胸を締め付ける魔法の言葉みたいに、心がキュンと痛いほどに高鳴りをおぼえ。カトルはトロワの手を握ったままの両手に、想いを伝えるように力を込めた。
まだ、形としても『家』はなかったけれど、大切な帰る場所は、トロワとカトル、お互いの中にあった。
■It continues.■