■ 誘い水 ■ しとしとと降り始めた雨。
雨を避けた人々は家に入り、ひっそりと戸を閉じた。
硝子越しに見遣る景色は見慣れた筈のものであるのに、輪郭で水滴を弾いてけむり、しじまに飲まれたように見えた。
情景の静けさとは裏腹に、雨音に掻き消されることもない鳴き声が騒がしいほど響いている。
蛙。
謳歌するのは野生の生命。自然の息吹。
雨と濡れた葉が香る。大気が擽るものは、鼻腔だけではなかった。
肺を満たしたその香りは、同時に胸をも膨らませたのか。眠っていた記憶をそっと呼び覚ます。
導かれるまま紐解けば。流れるように滔滔と蕩蕩と溢れ出す。幼き日の思い出。
蘇るカトルとの日々。
■ はじまり ■ 長期の休みというのは、トロワにとっても浮き浮きとした気持ちになるものだった。
休みだから嬉しいという、そのままの理由だけではなく。
カトルがここを訪れるから。
初めてカトルと対面したのは初夏。
そよそよと風が渡る、若々しい草木がさざめく中。カトルは大きな影を作る広いつばの帽子を被り、トロワの父の脚にしがみつくようにしていた。
『初めて会うお友だち』
今もふんわりと甘い雰囲気を持つカトルだが、子供の頃は砂糖菓子、はたまた、コンデンスミルクほどの甘ったるさをしていた。
トロワがじっと見ていると、カトルはますます父の背に隠れてしまおうとする。その癖、父のシャツをギュッと握るその拳の間から、ちらりちらりとトロワの様子を窺い見るのだ。
そんな二人の視線は当然ぶつかるわけで。
「はゃっ!?」
縋るシャツにカトルは顔を埋めた。
ならば、見なければいいのに……。
人懐っこい奴だと聞いていたカトルの、随分と話とは違う態度にトロワは首を傾げていた。
物事に動じぬところは当時から既に基盤が出来上がっていたトロワは、同年代の少年との対面というシチュエーションに、はしゃぐ様子もなく気のない様子。
視線を外さないことだけが、無関心ではないと物語っていたのだが。それは万人に伝わる、わかりやすいリアクションではなかったろう。カトルのようにはにかんだ態度をとるというのは頷けるが、彼はというと……。なんというのか、無邪気さが欠落していた。
本当はトロワなりに驚いていたのに。
少女のように見える少年も、トロワくらいの年齢ならば珍しいわけではない。性別不詳の幼児など、赤子に近付くほど多くいるもの。大人と比べ子供自体が総じて中性的であるのだから、少しくらいどちらに傾いていたところで問題ではない。
では、なににトロワは驚いたのか?
幼心を騒がせたのは他の者には感じたことのない、カトルの透明感。
透き通るような愛らしい容姿は、鮮烈に焼き付いている。
トロワの記憶の中のカトルの頬は、ミルク色にほんのり甘酸っぱさを感じさせる苺のピンク。
そんな子が、影に隠れ、そっとこちらを窺う。
カトルが瞬く音がパチパチと聞こえてくる気がしたのは、大きな瞳と長い睫毛のせいだったのか。
その時のことをカトルに話すと、
「君が怒ってるのかと思ってたんだよ。ぶすっとしてるんだもの。どうして接していいのかわからなくて、困ってたんだからねっ」
少し膨れて苦笑い。
カトルが照れ臭そうに言った言葉とは違い、トロワが覚えているのは、無愛想な自分を意に介しないで、纏いつくように懐いてきてくれたこと。
大きな手のひらに押し出され、トロワの前にじたばたとやって来たカトルは頬を染め、満面の笑みを浮かべていた。
機嫌の良くない人間にする、媚びた感じはしなかった。
余程カトルは欺くことに長けていたのか。
違う。
断言するのは惚れた弱みか。
それも、違う。
まだ、些細すぎて、惚れるには至らない。
まだ……。
あのとき見て取れたのは率直な好意。
どんな会話を交わしたのか。いや、会話はなかったのではないか。
惹かれゆく感覚に波がひとつ。
続く波。
胸で生まれたさざ波が拡がってゆく。
眼に映るもの。胸を満たした芳香までも鮮明に憶えている。
紐解けば少年の胸の高鳴りが、消えることなく確かに、自分の中に抱かれているのだと知る。
仄暗い室内で机上のランプが蜜蝋色に彼を照らしていた。
灯を含んだ髪は煤竹色に染まり、トロワは机に肘をついたまま。走らせるのが常の愛用の万年筆も空を彷徨い、今は静かに動きを止めて。
トロワが小さく息を吐いた。
それは、彼が洩らした幾許かの笑みであった。
また、聞こえ始めた音。
トロワは微かに睫毛を伏せた。
■ ふたり ■ 栗色のさらさらとした髪に、聡明な深緑の瞳。まだ頬に少しの丸みが残るが、顎のラインは細く。柳眉が少年の面立ちを大人びたものに見せていた。
このまま育てば、どんなイイ男になるのか……。
トロワは子供ながらに、そんな整った貌立ちをしていた。
一方のカトルは。
白金のきらきらした髪に、純真な碧の瞳。頬は、ほちゃりとして、やわらかさが視覚からも伝わるようで。あどけなさが剥き出しの心身で、大人たちの目尻を下げさせていた。
このまま育てばどうなってしまうのか……。
子供の頃からカトルは、そんな愛らしい容貌をしていた。
そんな二人は仲睦まじく。
トロワの家にカトルが遊びに来ているときはいつも一緒に行動していた。
見ていた人間も目を細めていたのではないだろうか。
顔見知りに挨拶しても、初めての店先でも。
「可愛らしいカップル」
なんて、面と向かって何度言われたことか。
今の澄ました彼に尋ねても、きっとはぐらかされてしまうだろうから、そのときのトロワの反応を思い描いてほしいもの。
空咳をする、珍しいトロワを見たければ、訊いてみるのも悪くはない。それも、対になっている人が尋ねなければ、かわされてしまうだろうが。
■ 手をつなご ■ とりあえずは手を繋ぐ。
九対一で、カトルからトロワの手を握る。
「…………」
なにも言わずに。
「トロワ」
呼びかけて。
きっかけは様々だが結果は同じ。
カトルの手のひらはしっくりと馴染み、トロワは当たり前みたいにその手を握り返す。
上手くできなかったときは。
催促の言葉は省略して、だらんとしたままのトロワの手を掴んで笑いかける。
そうすれば、カトルの願いは叶えられる。
本当のところは、対外的に見るからに優しいなんて思われる行動を、取る彼ではないのだが。花の綻びるような笑みに逆らえる者がいるわけもなく、トロワもカトルに対しては、優しい振る舞いばかりになっていた。
それもトロワにとっては自然の流れの中での動きであったから、違和感は無かったのだが、脇で見ていた父親から「ほほ~ぉ……」だか「……ふっ」だか、極まれにリアクションが起こるのだ。
その小さな反応につられ、自分の姿を反芻および客観視すると、なるほど薄ら寒い。
表情の乏しいトロワだが、片方の口端が微かに引き攣れて、気恥ずかしさと体温の上昇する感覚をおぼえた。
それでも幼年の彼は同じことをくりかえすのであった。
冬はいい。
冷たくなった指先があたたかになるから。
空を切ると体温が逃げていくから、カトルが手をブンブンと振るのをトロワは控えさせ、おとなしくさせる。
夏は……。
「ちょっと待ってね」
汗の滲んだ手のひらをカトルがごしごしと服でこするのを見て、トロワも軽く手を拭う。
暑い中では手を繋ぐという単純な行為さえ、容易とは言えなくなる。カトル相手でなければ、どう考えたところで不快なだけだ。
「はいっ!」
当然のように差し出されるカトルの小さな手を見ながらも。
(なにもここまでして……)
そう考えるトロワ。
カトルからしても汗が噴き出し、握っているのさえも気持ち悪くなるほど汗ばんでくるというのに。なにが嬉しくてまた手を繋ごうとするのか。
にっこりと笑っているカトルの無邪気な姿は、すぐにまた、手を拭うことになるとは考えていない感じ。
(何度やっても同じことだぞ)
トロワはあくまで冷静だ。
なのに。
繰り返してしまう。
そして、二人の手が繋がれるたびに、トクンと胸が音を立てた。
ふと考えた。
なにも言わずにカトルが手を離していたら、自分は困惑してのではないか。すんなりと手を離せなかったのではないか、と。
「トロワ、ちょっと待ってね。……はいっ」
カトルの言葉が、離れるのは数瞬の間であると告げてくれていたことに、漸くトロワは気が付いた。
きっとカトルは知らずにいたが、ずっと触れていたかったのは、カトルよりも寧ろ自分だ。
「トロワ、ちょっと待って」
だから安心していられたのだろう。
「少し、ならな」
■ 瞬き ■ 満天の星。
夜空を埋め尽くす星の光はあまりに無数で、地色であるはずの黒が明かりに飲まれているようだ。
トロワとカトルは父に連れられて、そんな空の下を歩いていた。
自動販売機は家から歩いて十分。どうせなら倍の時間を散歩しながら夜でも営業している店に行くことにして、三人連れ立って家を出てきた。
談笑というにはカトル一人が話しているだけだが、このメンツはこれでバランスが取れているのだ。
「うおぉっ!?」
なにげに目線を向けた先の街灯にたかっている虫を見て、カトルは目を皿のようにした。
「すごいね」
「都会とは虫の数も違うからな」
カトル専属の解説者はトロワ。三人の配置は大人を真ん中に左右に子供が配している、という状態。
「カトル、星だぞ」
今度は天を仰いだトロワを倣って、カトルも空を見上げた。
「ぐぅあっ!?」
今度はなんだ?
「うわぁぁ~~~!」
感歎にしては妙な声を上げたカトルは、肩をすくめ、横を歩いている父のシャツを反射的に思いっきり引っ張った。
ビッ!
「んん」
どうやら少し裂けたらしいシャツに対する反応は以上でおしまいである。帰宅後に繕いものをするという、父の仕事が増えただけのこと。
ピタリと張り付いてきたカトルの頭を、父は大きな手でぽんぽんと撫でた。
そこにトロワは手を伸ばす。
「カトル?」
トロワの声はカトルにつられてか、微かに狼狽え気味だった。
「……星」
差し出されるトロワの手もカトルには見えない。目を強く瞑り、父のシャツに押し付けた顔も上げもしないで、カトルはくぐもった声を出す。
カトルを父から引き剥がすには、きっと、指を一本一本こじ開けることから始めなければ。
さて、どうしたものかとトロワが二の足を踏んでいると、父はなんなくそれをやってのけたのだ。
コツは躊躇しないで瞬時に強引に……腕力に物を言わることだと、トロワはみた。
カトルの肩をトロワのほうへと軽く押す。ただし、父の腕力の強さを考慮せずにの「軽く」であるから、一般的なモノサシとは違うのだ。その一連の動作を父が無表情で行ったことと、カトルが勝手につんのめったせいで、父が厄介事をトロワに押し付けるように、カトルを突き飛ばしたように見えてしまった。
父の誤解されかねない力技は、今に始まったことでは無いので、問題にならない。
今回も、転びそうになったカトルは今の些細な出来事を気にしていないし、無理なくカトルと近付けるチャンスが回ってきたトロワは、父のいつもながらの行動に感謝していた。
ぎゅっと腕にしがみついてきたカトルは小声で言った。
「星が、いっぱいすぎて……」
「怖いのか?」
すりっとおでこが押し付けられる感覚で、カトルが頷いたのだとわかった。
圧倒的な星屑は美しさを通り越していた。星が好きなはずのカトルの目にはどんなふうにこの景色が映ったのだろうか。
(こんなに奇麗なのに)
右腕にカトルの高い体温を感じながら、トロワはぼんやりと見慣れた星空を見る。
「とても、きれいだね」
ちゃんと見てもいないのに。トロワの肩口をぶるぶる震わせて、カトルの声がする。
都会では見ることの出来ないような無数の、こんなにたくさんの星が輝く空と星を賞嘆しないなんて失礼だと、子供ながらにカトルは思ったのだろう。
「カトル。トロワごと転んでしまうぞ。しっかり歩け」
「ぁ、はいっ」
数歩後方からの注意に、カトルは慌ててトロワにしなだれかかっていた体勢を改めた。
その後も、空を見ては怯えたように下を向く。
手を繋いできたカトルは力みっぱなしで、トロワの手が痛むほど。
初めて会ったときは、まずは、トロワの父の名前。
それがいつしか、まずは『トロワ』と、自然にカトルが口にするようになったとき。いつまでたっても、カトルにとっての一番が親父だとわかっていたときのおもしろくない気持ちとあいまって、トロワはその逆転を素直に嬉しいと思った。
知られるのが気恥ずかしかったのと、自分勝手な感情だとわかっていたから、親父に懐いているカトルを見ていたときも、トロワはなにも言わずに、ぶすりとしていただけだった。
今は頼るように手を握ってきてくれることが嬉しい。
誰よりも先に、名前を呼んでくれることが嬉しい。
怖がっているのに、安堵した表情をカトルが浮かべているのは、この手のおかげだとトロワは思いたかった。
そのとき星を見られたら、印象的な想い出にはならなかっただろう。美しく、カトルを怯えさせた星は、皮肉にも、見ることができなかったからこそ、より鮮烈に心に留め置かれた。
トロワは憶えている。星に埋め尽くされた空と少し残念な思い。
そして、カトルの表情、体温を。
はっきりと、憶えている。
「も、ものすごいね」
「星が嫌いになったか?」
「ううん。星は好きだよ。すごく大好き。たくさん見られて、うれしい」
「怖いのに?」
「う、うん。たぶん、べつなんだよ。だって本当はちゃんと見たいもの。もったいないよね。……今はどんな星座が見られるのかなぁ?」
「そうだな……」
天鷲絨(ビロード)のつやめく表面を隈なくトロワの視線が撫でる。
しかし。
「星が多すぎて……」
星座がわからない。
星座版なら、簡単にどんな星座でも判別することができるトロワなのに。我が故郷ながら、のどかで空が澄みすぎていることに溜め息が出そうだ。
こういうときに、カトルにいいところを見せられないなんて。子供心に地味にショックでもある。
星座版じゃなくても真っ黒な空にいくつかの明るい星が瞬いているだけならトロワも、星座くらい容易に探せるのだが。このおびただしい光りの粒子で埋め尽くされたかのような空と対峙しては、なにを基準に星を見ればいいのかさえ、見当もつかなくなってしまう。
トロワが言葉を詰まらせていたら、カトルは鈴が鳴るように、くすくすっと笑い出した。
「やっぱり多すぎだよねー。とても、きれいだけど、もう少しだけ、へらしてくれても、いいのにねぇ」
「せめて」
「星座がわかるくらいにさ」
面食らうトロワの表情(カオ)を期待して、いたずらっ子の表情でカトルがトロワの顔を覗き込む。
トロワが少し目を丸くしたのは、ほんの束の間。
「ああ、それに、カトルがちゃんと、上を向けるくらいにな」
カトルに向かってそう言うと、トロワは笑みを零した。
彼の笑みのように密やかに、星の間をぬい、いくつかの星が流れた。
カトルは見えないはずの、星が降る音を聴いたような気がした。
■ えんのした ■「お前も子供だな……」
トロワがカトルといるのを見て、トロワの父が呟いた言葉だ。
十前後の自分の息子を捕まえて言う、親の台詞ではない気がするが、トロワはこんな父、ヒイロを慕っている。
カトルもよく懐いていて、トロワと知り合う前までは、一番の仲良しはトロワの父親のほうであったぐらいだ。
トロワの父はマイペースに物事を推し進めていく人間で、トロワが淡々としているのには、その影響も小さくはなかったのだろう。
「おじちゃま」
と、カトルに呼ばれるのが苦手な人。
それを知っていたからカトルも、他の大人たちがいないところではその言葉は使わなかった。要するに「おじちゃま」と呼ぶのは余所行きの呼称だった。
他人から見れば淡泊な親に見えたかもしれないが、冷たくはない。動揺に至る到達点のようなものが通常よりも高く設定されているだけだ。それを証拠に全くの無責任、我関せずではなく、その加減は適度な放任という感じで、トロワは常々感謝していた。
「放任というよりも、放牧みたいだよね」
カトルはそう表現する。
親らしくはなかったかもしれないが、いい親父殿であったとトロワは評価している。それは今も変わらない。
現在も存命。父は元気一杯パワフルに生活しているので、こんな昔語りのように話してしまったからといって、誤解なきようお願いしたい。
■ だいじ ■ カトルが一番恥ずかしがる話。
それはトロワにとっても、きまりが悪い話で、無闇に吹聴したくない出来事だ。
エピソードとしては子供らしく微笑ましいのだが、カトルのことは可愛いと思えても、自分のことは馬鹿にした感情しか湧き上がらない。まぁ、自嘲してしまうのだろう。
泣き叫ぶカトル。
そう、ただ泣くだけではなく、その時カトルは泣きながら声を嗄らせて叫んでいた。
泣くカトルなら珍しくはない。この様に言うとカトルは訂正を求めるだろうか。
つまり、泣くことはあっても……取り乱して叫ぶことはない。と、この部分を強調しておきたかったわけだ。
その時のあまりにも壮絶な姿は、いつ思い返しても笑いを抑えられなくなる。自分のことが加わると苦笑に変わってしまうのだが。カトルのめちゃめちゃな悲鳴も、自分を心配して、ただひたすら出していたものだと思うと騒音だとは決して思えない。
それは、どれ程カトルがトロワを大好きか、笑ってしまうが、痛々しいほど伝わる貴重な出来事だった。
さあ、子供は寝て。
という時間になって、父が眠る前にトイレに言っておくかと言い出し、二人は連れられて厠の前まで来た。
初めて泊まる場所なだけに、夜に眼を醒ますだけでも、子供が泣くには十分な理由になる。そんな田舎の家。トロワはそういうことはないのだが、カトルが怪しい。
厄介ごとを回避する手段を講じた父の判断は実に正しいと言えた。
しかし、トロワとカトルの前には未知の恐怖が待っていたのだ。
薄暗い明かりを灯し、扉を開けて中を見た。
「ヒィッ!?」
悲鳴を上げたカトルがトロワに飛び付いた。トロワも思わず硬直する。
父だけは平然と。
「カトル入れ」
個室の中にカトルを入れようと背中を押した。
が、カトルは悲鳴の続きのような細い声を出しながら、イヤイヤと後退った。
「なんだ。何が嫌なんだ? いいから入れ」
「いやぁッ!? ぼ、ぼくっ、ぼくはいいよ、したくないから」
腕を掴んでいるカトルに引っ張られ、意思とは無関係にトロワもじりじりと後退する。
「カトル?」
頬にあたるカトルの髪が擽ったい。
「カトル、中に入るのが怖いのか?」
ずばり言ったのはトロワに非ず父のほうだった。
「えーっ!? そ、そんなことは……」
もごもごもご。
カトルの語尾は有耶無耶に消えてしまう。体は正直に、その場を立ち去ろうとしているのに否定めいたことを言う。子供は見え透いた誤魔化しを真剣にやってのける生き物だ。
消えるではないが、時々ちらつく電球を見て父親は納得した。そう、大人がくだらないと思うことでも子供はそうではないのだ。ここの明かりが煌々と輝いていても同じこと。はっきりとした根拠もなく、漠然としたものに怯えているのだから、どう理屈をきかせても恐怖心を拭い去ることは出来ない。
トロワはこういうことで後込み(しりごみ)するタイプではないのは我が子のこと、父が一番良く知っている。だから矛先を変え、完璧に逃げ腰になったカトルは後に回すことにして、今後は先にトロワを促した。
すると、カトルが過剰反応を起こしたのだ。
「ワーーーッ、ダメ!!」
「お前じゃない! トロワ、騒がしいのは無視しろ」
トロワのパジャマを掴んでいるカトルを父は後ろから捕まえる。
「ダメッ!! ダメだよォーッ!! ダメダメダメッ! トロワ、落ちちゃうよー!!」
「落ちない」
断言する父。
「……だ、い……じょう、ぶだ」
尋常ではないカトルの押され、トロワの口調まで通常の時とは違う歯切れの悪さ。緊張が伝染してしまったのだろう。
カトルが恐怖におののいているのは汲み取り式の手洗いであった。
昼間に他所で使用したときに既に擦ったもんだを演じていたのだが、さすがにここまで酷くはなかった。夜のトイレというのはまたひと味違うものなのだろうか……。
心優しいというか、カトルは他人のことまで我が身のことのように考えてしまう。それがトロワの事となると格別だ。きっと大変なことになると大混乱で、カトルはあの大きな空間をトロワが跨ぎ損ねる心配までしなくてはならない。
「トロワッ、ダメだったらぁーーッ! 入っちゃダメ!! トロワッ、トロワったらァッ!!」
「だ、大丈夫だから、落ち着いてくれカトル」
個室の扉をトロワが閉めようとすると、羽交い絞めのようにされているカトルが悲鳴を上げる。
その声に驚いて足を滑らせそう。本当にトロワを案じるなら、カトルは口を閉ざしておくべきだろう。
兎に角、個室に入ったら最後、落ちてしまうとカトルは思っていた。だから、嫌だ駄目だと必死の形相でトロワを引き止めようとする。果敢にも扉の向こうに消えようとするトロワを見て、ついにカトルは大声で泣き出した。
「うわぁ~あぁあああああん、トロワアァ~~~」
トロワも真剣にカトルを執り成しているのだから。それはさながら今生の別れ。本人たちが懸命なだけに、他者から見れば滑稽味も相当なもの。
嵌ったところで父が何とかしてくれるとはカトルの想像の範疇にはないようで、落ちれば、一巻の終わり……といった感じ。
「たすけてっ、トロワをたすけてよぉ!?」
「それは落ちたときだ」
まだ落ちてもいないうちから無茶を言う。カトルの頭の中ではそれは確定しているのだからしょうがないのか。トロワの父は笑うつもりもないようで、この単純で心配性な可愛い子に手を焼いているだけだ。
手立てがないのだからトロワのほうを急かせるしかない。
「カトルは放っておけ」
目配せされて、トロワは頷きカトルの声を振り切るように扉を閉じた。
「ぐぅっわあぁ~~~とぉろぉわあぁ~~」
トロワ救出のため扉を蹴破りかねないカトルを抱き竦めながら父は溜め息を漏らした。
「カトルが泣いてどうする……」
田舎の厨というのは、どうして母屋から離れた場所に設置されているのかを、カトルの絶叫がほとばしる中、トロワはなんとなく理解した気がした。
「ドロワッ、トロぐぁああああ、うううあぁ~~~」
扉を隔てて泣き叫ぶカトルの声が届く。
内容としては。
「危ないから入っちゃ駄目だよトロワ」
「トロワが落ちてしまう」
「嗚呼、トロワが……」
「大変なことにぃ」
といった感じの事を口にしているつもりなのだろうなぁと推察できた。
命乞いするように「たすけて」や「ゆるして」と口走っているのには、父親も対処に困り果たことだろう。
(大丈夫だ。泣くなカトル。俺は大丈夫だ……)
しかし、トロワもこんなことを考えていたとは。
心の中での呟きは、トロワ本人が明かさない限り永久に秘められたまま、人に知られることはないのだろう。
ほら、トロワの笑みが苦笑に変わった。
■ しずか ■ 雨の日はおとなしく部屋で読書に興じるところは、当時から変わらないトロワの習慣。
カトルは広げていた本に飽きてくると、トロワの様子を窺う。トロワも一段落つけばいいなぁと考えていたのだが、その気配はなかった。
トロワは本を読むことが好きだと知っているカトルは、邪魔をしてはいけないと子供ながらにわきまえていた。
座っているトロワに凭れかかったり、揺すったり、上に乗っかったり、時には押し潰してみたり……と、纏いついてはいけないのだ。これはトロワを大好きなカトルからすれば相当な我慢が必要だった。
クッションの上でゴソゴソとカトルは身じろいでいる。
放っておこうと思っていたトロワだが、その奇行は目に余るものがあった。
「カトルお前、背中でも痒いのか?」
「ふぇ? ううん」
「聞いても、いいか?」
まずいことかもしれないと、懸念を抱いたトロワの口調。「駄目なら駄目と正直に言え」と、強く念じながらカトルに向けて言っていた。
通じたのかどうか。持ち上げるのが難儀なくらい大きなクッションを引きずりながら、カトルはトロワの傍にいそいそとやってくる。別に来なくても事足りるのだが、それを言わないトロワも……。
トロワの真横に席を陣取ると、クッションを整え、その真ん中にちょこんと座って小首を傾げた。
つきたてのお餅が頭を横切るほど、カトルはとても柔らかそう。何だが、イメージは大福餅。
だけど、「大福餅に似ているな」では、それだけの好意を込めて囁いたところで、喜んでもらえそうなフレーズではないと思い、そっと心の中にしまいこむ。トロワのこの判断は正しいに違いない。
「さっきから何をやってるんだ?」
「ぼく? なにもしてないよ」
「してただろ」
「してないんだよ。することがないから、体を動かしていただけなんだから」
「だから、してたんじゃないか……」
即席で考案したものなのか、クッションを使った体操のつもりらしいが、宙で膝小僧が足掻いていた状態は、トロワの目にはむず痒いようにしか見えなかった。大目に見ても、クッションの抱き心地をあらゆる角度と体勢から調べている……という、感じだった。
「歌でも歌ってろ」
トロワは深く考えずにそう口にしたのだが。カトルは本当に素直だった。
言われるままに口ずさむのは、教科書に載っていた曲。トロワがどこかおかしいと感づいたのは、二曲目を唄い出して暫くしてからだった。
同じ歌詞を繰り返し歌っている。
途中で違う曲にすり変わることもあるが、今のカトルの歌は、始めと終わりのメロディーが繋がってしまって、終わらないのだ。
カトルの歌でいくと。
キラキラ光る、お空の星は……、瞬きをしては、みんなを見ている。休む暇なくみんなの見ている。
そう、ずっと、見ている。
いつまでも見ている……。
誰か止めるまで、きっと、見続けている。
「カ……」
トロワは呼びかけようとして声を詰まらせた。
知っている歌なのだが、生憎トロワのはこの曲のタイトルはおろか、正しい歌詞を記憶していなかった。
止めてやりたくても、止められない。
さて、トロワはその後、読書に没頭できたのだろうか?
記憶を手繰るのだが、すっぽり抜け落ちていて思い出せない。
いくら思い出そうと試みても、トロワの頭の中をあどけないカトルの歌声が、延々と流れていくだけだった。
■ せかいのおへそ ■ カトルの愛用の帽子は顎紐付き。
直射を避けるべく、外に遊びに出るときは帽子を常用することをカトルは強く命じられていた。
(首輪を嫌がる動物の気持ちが、今のカトルにならよくわかるんだろうな……)
トロワがそんなことを思うほど、はじめは首が絞まる感覚を気持ち悪がっていたカトルだったが、慣れたのか諦めたのか、最近は特に不快感を訴えることもなくなっていた。
トロワの父の言葉を聞き終えたカトルは、ぴたりと動きを止めた。瞳だけがくるくると動いていることで、カトルが何か考えていることは確か。
それに気づいたトロワが横目でカトルの考えを探ろうとしていると、目敏い父が眉をひそめた。
「嫌なのか?」
「イヤじゃないんだよ」
父の言葉に即答するが、その中には『でも、ぼくには疑問があります』と、言う意味が盛り込まれている。
意思を代弁するように、父に代わってトロワがカトルに問いかけた。
「じゃあ、何なんだ?」
「どうして?」
(来たか……)
カトルの『知りたがり』は、突発的に現れる。
普段は「はーい」のお返事の後に、可愛いハートの記号が飛んでいそうな物分りのいい子なのに、極たまに、カトルの中で何か引っかかるときがあるらしいのだ。
もげそうな程に首を捻る仕種は、見ているトロワまで、つられて微かに首を傾げてしまうほど。
「どうして、ヒイロは帽子をかぶらないのに、ぼくはかぶらなくっちゃいけないの? ねぇ、トロワ」
「……」
こんなところで同意を求められても困る。
(どうしても、何も……)
言葉を濁すトロワの心情にカトルは気づかない。
父との抗戦にトロワも巻き込むつもりなのか。そこまでカトルが考えていないまでも、とりあえずはトロワを味方につけようとしていることは明らか。
人の話をきっちりと聞いていないだけかもしれないが、はっきりと否定しないかぎりは、トロワは自分の味方であると信じて疑うつもりはないらしい。
子供二人であろうとも二対一。多数決なら親が相手だって負けはしない……つもり。
「ねぇ、どうしてなの?」
「俺には必要ないからだ」
「ぼくには必要なのに?」
「そうだ」
「ぼくにはぁ……」
「そうだっ」
簡潔に答えるトロワの父は、子供相手であろうが、余り丁寧な説明などをするような人物ではなかった。
観戦しながら、対カトルであろうと容赦のない父の姿に、己の肉親ながら、問答無用という言葉がこれほど似合う人物というのもいないとトロワは思っていた。
「そうなの、トロワ?」
カトルは遣り取りに詰まるとトロワを見る。
「……親父は平気でも、カトルはそうはいかないんだろ」
「そういうことだ。わかったな」
具体性には欠けるが、理由がわかればカトルにも異存はない。それからは、よい子のカトルは約束を守り、帽子を頭に乗っけて出かけるようになった。
と、これでうまくいけば話はここで纏めに入るのであるが、カトルのこと、一筋縄ではいかない。
折角、被って行っても、出先でその帽子を忘れてきてしまうのだ。だから今度は「帽子をとるな」と厳命されるようになった。
いくら強く言っても遊びに夢中になると言い付けは無力化。トロワがかなりフォローしているものの、所詮は彼もトロワと同じ年の子供。しっかりしていても完璧とはいかない。忘れること数度。最終的には父が、帽子にゴム紐を縫い付けてしまった。
カトルは物静かな子であるのに、騒がしくもある。違うはずの二つの印象が確かに混在していた。
おっとりとしていて、ちょろちょろする。そんなカトルの行動も可愛い点の一つであることは疑いようがない。
しかし……、今度はカトル自身に紐を結わえつけられないよう気をつけなければならないと、トロワが小さな決意を固めていたことに、カトルは気づいてはいなかった。
■ たからもの ■ 子供というのはとにかく、大人と比べて外に出ていることが多い。それはトロワとて例外ではなく、多少の子供らしさの証明か、夏には焼けて肌が浅黒くなっていた。
お日様の照り付けが和らいでくると、徐々にそれも戻り、冬はすっかり焦げていた痕跡さえも見えなくなる。しかし、数ヶ月ごとにトロワと会う、過程を見ることのないカトルからすると、それは興味深い現象の一つだった。
まさか朝起きて漂白したように色落ちしていたり、着色されているとは考えていなかっただろうが。たまに突拍子もない発想に及ぶカトルなので保障はできない。
カトルの肌は陽にあたっても赤くなりこそすれ黒くはならないから、周囲の人々が小麦色になる季節は肌の白さがますます際立ってくる。だから冬場より夏のほうが人の皮膚の色が気になるのだろう。
「トロワはカメレオンだ」
と、カトルは年真っ白な自分の肌と見比べてそんなふうに漏らしていた。
人を爬虫類に当てはめるとは、どういうことだ?
「それは少し違うだろ」
「なにが?」
不思議そうに首を傾げる。
話す人間を大きな瞳でじっと見つめてくるのはカトルの昔からの癖。だけど、あまり真っ直ぐに見つめられていると、少し、話から気が逸れてしまう。
「トロワ、おしえてくれないの?」
促す声。カトルの小さな手が繋いでいたトロワの手をきゅんと引く。
「カメレオンってのは確か、周りの色に溶け込むように体の色を変化させるものだろ。俺は保護色になってるわけじゃなく、単に日焼けしているだけだから、意味が違うだろ」
「ふぅ~~ん……」
話を聞きながらカトルは可愛い唇をすぼめたり、口角を『んん』と引いたり。瞳がくるりと半周した。
「だけどね、やっぱりトロワはカメレオンだよ」
トロワは「どうしてだ?」と言うかわりにカトルを見る。
「そのときによって、色が、かわるもの」
「だから言っただろ」
「うん。だからね。夏はこれ!」
たんたんっ。
カトルは足踏み。
「つち!!」
「土?」
地表。
焼けた肌は大地の色。
「今のトロワ!」
呆気にとられたように、トロワは踏み鳴らしたカトルの足もとに視線を移した。
下を向いていては前髪のせいでトロワの顔が見えない。それはカトルにとっては面白くないこと。トロワの気を引こうと、カトルは繋いだままの手を大きく振った。
つられてトロワがカトルを見ると、間近に見えた碧い瞳は、自分がトロワの瞳を占領することに成功した満足感で満ちていた。
きらきら、と。そう表現せざるを得ない、大きな瞳はものを言う。素直に感情を口に出すカトルは、その瞳までも正直だ。必要なことまで言わない自分とは違う。
「それでね」
じっとトロワを見つめたままカトルは、取って置きの宝物を教えてあげるように、ゆっくりと話しかけてくる。
子供特有のというのか。カトルは、はしゃいだ気持ちが浮かんだ、得意気な笑みをトロワに向ける。
握っていた手に力を込めて。
「寒くなると、トロワはきっと……雪になるんだ」
指を絡めると、そう言って柔らかに微笑んだカトル。
(この俺が……)
土に積もる白い雪。その色を真似ると言うのか。
幼いカトルの中での美しい情景。
その自然の色彩に、カトルが自分をなぞらえたことが、柄にもなく嬉しくて。トロワはなにも言えなくなった。
「ぼくはどっちも、大すき」
カトルの笑みは空気さえも清らかにするようだ。
深雪は純白に輝くよう。清らかさ、無垢の象徴なら、容貌にそのこころまで、カトルに相応しい。
大きくなる鼓動。繋いだ手から溶けていく体温。
眩しい陽射しに、初夏の照りつける陽光は、まだまだ優しい肌への刺激。
言葉も出せぬトロワにやきもきしたのか、強い風が吹き抜ける。
その風圧で、カトルの被っていた帽子が後ろに飛ばされた。
「わっ!!」
首にかけていたゴム紐のお蔭で、二人して帽子を追い回す必要はなかったが。首が絞まって、カトルは「べぇーっ」と舌を出す。
ぎゅぎゅッ。
と、俯いて目を強く閉じた。
カトルの小さな拳も顎紐を握り『ぎゅぎゅッ』だ。
向かい合う形で正面から手を伸ばし、トロワはカトルの頭に帽子をぐいっと乗っけてやった。
近づいたぶんだけ、爽やかな草木の芳香に、カトルの微かな香りが勝る。
髪か肌の香りだろうか。石鹸にしろ、昨晩も同じ物を使っているはずなのに、カトルは不思議と甘やか。
前髪が目に入ったのか、カトルは目を閉じるとふるふると頭を振った。
照れ隠しの方法を模索しているトロワは、カトルの帽子の縁を悪戯するように上へと弾いた。
「ぉわ……」
弾かれたツバを追って、一緒にカトルが上を向く。
限がなさそうな追いかけごっこは、カトルの視界から逃げる帽子のツバが背中につっかえ、直ぐに終焉。
くすくすと笑い出したカトルの頬をトロワは両手で包み込む。
ふにりを手のひらで歪む、柔らかな頬。
慈しみという言葉も知らぬ少年が、どれ程の愛しさを覚えたことだろう。
『好き』
そんな感情さえぴんとこなくて。ただ、カトルを見つめていた。
何事かときょとんとしたカトルの瞳を捕らえると、トロワの口許が綻びた。
「カトルは、この色だな」
トロワが先ほど触れたもの。
光を弾き、カトルを縁取るその帽子は、白い色をしていた。
心地好い風と、生き生きとした自然の色に涼やかに映え、空の中で切り抜かれる白。
何にたとえるかんて問題ではない。トロワのカトルへのささやかな報復。
次は何を真似たのか?
否、そうではなかったか。
トロワの手のひらの中で、カトルの白いほっぺが色を染め、熱く火照りはじめた。
見る見る乳白色が桜色になった。
■ ねがいごと ■ 大きな意味のある告白は、二度。
「大すき」
そんな言葉でカトルが伝えたのがはじまり。それは、知り合ってすぐのことだった。
不器用で優しくもしてやれなかったトロワに、カトルはこう言った。
「トロワは、ぼくのこと、キライかもしれないけど、ぼくはトロワのこと、大すき」
無理に浮かべた笑みは泣き顔のようで、それを目にしたとき、自分は知らないうちに酷くカトルを傷つけていたのだと知った。
殴られたような強い衝撃。
カトルからはっきり好きだと言われたのに、自分の心理も理解できぬまま、子供だったトロワは痛みを感じただけだった。
不器用なんて言葉は言い訳だ。時に美徳のように使い人の心を踏み躙り。照れ臭さで自分を肯定し、人を傷つける。
伝えない。物言わぬ。隠し通す。
その姿こそが美しいと考えたとき。それは自らが、歯車に狂いを生じさせる原因を作ることにはならないのだろうか。
万能な言い訳を身につけると、ろくなことにはならない、怠慢を許し謙虚な心を見失うから。
自己を正当化することで何をしていたのか?
カトルはそれからも、トロワの存在を肯定するように、慈しむように、好意の言葉を投げ掛け続けた。
「トロワは、やさしいから……」
そう、言われるたびにトロワは、ぬくもりに溢れた優しさを持っているのはカトルのほうだと思っていた。
カトルの「好き」は幼くとも、少年だったトロワの心をいつも満たしていた。
「すき」
カトルのその囁きがあれば、どこまでも強く優しくなれると思えた。
豊かな感情が芽生え、愛しさに溢れる。
カトルと過ごす時間がトロワにとって掛け替えのないものだった。
二度目の告白はトロワから。長い時間を経て伝えた言葉。
友愛。それだけではない。
カトルが口にしたそれとは、重ねた年月の分だけ、含まれた意味が随分と違うものになっていた。
本来の告白は、きっとこちらを指すのだろう。
本当に掛け替えのない大切なものとは、時間ではなく、カトルその人自身の存在。
カトルが必要としてくれるなら、自分の存在も無駄ではないと感じることができる。
声を聴いて。見つめ。惹き寄せ。
叶うなら、カトルの最愛のものになりたかった。
■ 奏でる ■ それは、酷く暑いときだったか。
それとも、肌寒い雨の日。
雪が静かに降り続く。窓に白々とした、仄かな光があたる夜?
トロワは、カトルを抱いた。
夜が更けるとともに、気温が少しずつ下がりはじめた。
闇夜の中で、雨は降り続いている。
穏やかな雨は大地を潤す役を担っているのだろう。
水滴は弾け、立ち籠めるようにあたりを漂うのか、傘をさす人間も、しっとりと濡れている。それが不愉快ではないのは、乱暴な風が叩きつけた飛沫ではないから。
外にいれば、きっと、涼やかな大気を肌で感じるように、深く深呼吸していただろう。
その代わりに。
屋内に届く雨音の優しさを、聴いている。
重なる鳴き声を聴いている。
騒然とした蛙たちの声も今日は賛美に映り。
昔を懐かしみながら、しみじみと耳を傾けていた。
慎ましく扉を叩く音。
続いて、トロワの最も心地好い音が聴こえてきた。
カトルの声。
気配を察しかね、部屋に立ち入るべきか迷ったのか、小首を傾げたカトルに、トロワは手招くように仄かに笑みを向ける。
口角が綺麗に上がり、大きな瞳が細められた。カトルが浮かべる微笑みは、どうしてトロワの意識を奪うのだろう。
たおやかさと愛くるしさとを兼ね揃えたカトルは、幼き日から、トロワの胸を焦がし続けていた。
初出は2000.5.7「雨の日も、晴れの日も」という本になります。
それに今回、加筆訂正いたしました!