WARM KINGDOM
錬金術師であるヒイロが、いつもと変わらぬ難しい顔で、閉じこもっていた研究室から出てきたときに、見たこともないモノを手にしていることは珍しいことではなかった。
そのモノというのは、ときには硝子瓶に詰められた琥珀色の液体であり、ときには今にも宙に浮かびそうな綿毛に触覚が生えた個体だった。
それは何かしらの方法を用いて創り上げたものであるのだが、――以上のようなものから――無機質、有機質、ひっくるめて、分類が困難なために“物質”としか形容のしようのないものまで、彼の研究が幅広いものであると示すように、現れいずる成果たちも多種多様な姿をしていた。
一見、枝葉は違って見えるが、根の部分は同じものであって、人が思っているように研究は多岐にわたるものではないと思いつつも、ヒイロは対外的な説明などしない性格の主だ。そのために、彼の多くの成果を知る者の中に、あれらのものは、本当はこの世ではないところから呼び寄せたものではないのだろうかとさえ噂する人間までいた。
あながち間違いではないのかもしれない召喚師疑惑もどこ吹く風で、日々創造に明け暮れているヒイロであるが、いつでも好きに何かを研究・製作しているというわけではなく、錬金術は(確かに楽しみではあるのだが、それと同時に)彼の生活を支えている生業でもあった。
もっとも、依頼される仕事をこなすたびに彼が手にする報酬は、価値を知らぬ者から見れば法外としか言いようのない額であったのだから、支えるという表現ではいささか慎ましすぎて不適当かもしれない。
町外れというには生易しい、町から外れ外れた森の中に居を構え、見渡す限りが所有地だという広大な敷地内にこじんまりとした屋敷を建てて、ヒイロは静かに暮らしている。
誰に邪魔されることなく錬金術に没頭し、閉じこもっての研究三昧。こんな風景が似合うものを想像すれば、さぞ不健康極まりない輩を思い浮かべそうだが、彼はその予想を覆す容姿をしていた。
何をするにもカラダが資本だという持論から、無闇に叩けば、逆にこちらが手を傷めるような肉体の鍛え方をしていて、肩書きからは想像もできない代物だった。
それに努力で補える比率が肉体と比べるとぐっと低くなる首から上の部位(パーツ)についても、(好みというのは人それぞれだが、客観的に見て)上中下の三段階評価なら、上、ないし、定めたはずのない特上をつける者が大半を占めるはずだ。
ひなびた土地に引きこもっているのは宝の持ち腐れかもしれないが、当の本人にそんなことを言っても無意味である。実際にヒイロの仕事依頼の仲介をしているデュオという青年は(よっ、色男! だとか、本当にくだらない)余計なことを口にして、
「貌が研究の役にたつのか?」
と、鋭い眼光で口を縫い付けられた。ヒイロの闇に沈みきらぬ鮮やかな群青色の瞳は、人を誅殺するなど容易い圧力を持つ。
彼は恋多き者達が自分の想像範囲外であるために「実在するわけがない」と決めつけている人種である、”興味が異性以外のモノに向かってしまっていて、恋愛することを、特別には渇望していない状態下にある人間“の具現そのものに違いない。極端に言えばヒイロからすれば、周りをうろつかれて迷惑なのは異性同性ひっくるめてのことなのだ。
そんな風変わりな青年ヒイロだが、黙然と孤独に暮らしているわけではなかった。一緒に暮らしている人間がいた。
前述の通り、扱いが厄介そうなヒイロの、気に障らないとは、どんな人間なのかと、少なからず興味を持つのは、詮索好きな者に限ったことではないだろう。
研究室から出ようとしたヒイロは、一度引き返し、デスクの引き出しから取り出した愛用のペンを白衣の胸ポケットにさすと、また、すぐに歩き出した。
光が射す明るい部屋の入口に立つ。
対比のせいで廊下が薄暗く感じられた。
ヒイロの視界には華奢な少年の背中があった。忙しなく、しかし、ゆったりと部屋を行き交う彼は、ヒイロのとってはなくてはならない者だった。
バスケットを大切そうに両手で抱えて歩く、ほっそりとした後ろ姿が、歩調に合わせ左右に揺れていることが、髪の毛の動きからはっきりと伝わる。微少な振動で揺らめくなんて……、そのプラチナの光の束のような髪は、綿毛みたいに柔らかそうに見えた。
彼がヒイロが特別だと認めている少年、カトルである。
本当は“青年ヒイロ”と同じ歳であるカトルを“少年”と表現するのは不適切かもしれないが、彼を見ているとそう言いたくなるのだ。
カトルの役割は、生み出した様々なモノたちを管理する、いわばヒイロの補佐役だった。最小限のことだけを伝えて任せてしまえば、そのものの意思を読み取るように“いいよう”にすることができるというのだから、特性ともいえるのではないだろうか。
しかしヒイロはカトルの能力だけを買っているのではない。カトルは近くにいても空気を乱さないのだ。
ヒイロにとっては、他のものが髪を滅茶苦茶に掻き乱し視界を妨げる春の嵐なら、カトルはそよぐ春風。どうして眉を吊り上げる必要があろう。
そんな奇跡的な存在は、すすすーっ……と、マイペースに動き回っている。
リビングに入ってきた者がいることにカトルは気づかず背を向けたままなのは、ヒイロが気配を殺すようにして動くからに違いない。
カトルがテラスへと続くガラス張りの大きな扉を思い切りよく開けると、少し肌寒い風が屋敷を囲む草花の緑の深い香りを乗せて部屋の中に舞い込んでくる。外気に触れると、少年はぶるっと躰を震わせた。
「カトル、上着を着ろ」
ヒイロの声で飛び上がるようにびっくりするカトルを見ることはよくあることだ。毎度のことながら、おまえの意識はどんな遠くまで言っていたんだとヒイロは思う。
「出てきてたの。ご苦労さま」
白衣を身につけたままのヒイロにそう言いながら、カトルの微笑がはにかみまじるになるのは、自分の反応を照れ臭く思いつつ、それでもなんでもない顔をしようとしているためだった。
儚げにすら見える、すらりとした――ハンサムというより――美人であるのに、こういうカトルの表情は、見る者の目にどうして、どうしようもないほど可愛く映るのだろうか。これは動物の赤ちゃんはどうしてあんなに可愛いく感じるのであろうか? という疑問と大差ないものだろうと言えた。おそらく本能に訴えかける力があるのだ。
「一段落ついたのなら何か飲む? お腹は空いていない? なにか作ろうか」
軽い食事をすすめるカトルに、ヒイロは必要ないと短く返し、俺のことはいいから用事を優先しろと、無言でカトルの尻を叩く。
ヒイロが無理をしている様子はないと見たカトルは、話題を変えることにした。
「ほら、今日は小春日和だよ。ヒイロもお日様に当たれば。気持ちいいよぉ」
そのままカトルは笑顔を残し、テラスにセットされたテーブルに向かう。縁をなぞるように丸テーブルの周りを半周し、立ち止まると軽く首をかしげ、三分の一来たところまで後返った。
考え事をする顔で、微かにだが小さな口をつんととがらせる。カトルはまず空の蒼を見て、そこに混じるように浮かぶ雲の白を見て、さんさんとした陽光の色素が飛ばされている発光の中心部分を見て……しまって、ふるふると首を横に振りながら、しばたたく。
目潰しをくらったカトルを何気なく見ていたヒイロはの脳裏には、小動物の身震いが浮かんでいた。
(オーバーラップ現象か)
ささやかながらも二重写しには違いない。
ヒイロの視線など意にも介しないで、カトルはその位置でバスケットを置くと、蓋代わりのようにそこに被せていた布をめくった。
カトルの楽しげな振る舞いは他者の好奇心を刺激する。覗き込む瞳が純だから、その中が秘密で溢れているように人の目には映るのだ。ビタミンカラーで編まれた。明るい色彩の布は目にも楽しい。碧い瞳がじっと見つめる視線の先は、タネを忍ばせた手品師の手元と同等の人の気持ちを惹きつける吸引力を持っていた。
しかし、肩透かしを食らわせるように、布の下からは、人の心を浮き立たせるようなブーケはもちろん、何も飛び出してはこなかった。実は中にあるモノが潜んでいるのだが、今はまだそのまま。
たった一人の傍観者は、どよめく架空の観客とは違い、ただ目線を向けているだけである。カトルのこの行動は、天気の良い日の習慣であるのだから動じないで当然なのだ。
品のよい動作で、丁寧に手にした布をたたみながら、カゴの中を覗き込むカトルが何事か呟いているが、空気に溶けてしまって、室内にいるヒイロにさえその声は届かない。ただ、鈴音のような声を零す桃色の瑞々しいそこが、緩み、すぼみ、質感を変化させるのを目で追うだけだ。
聴くことは端から諦めているぶん、視覚が聴覚のぶんも働こうとする。普段は二箇所に振り分けられている感覚が集中すれば鋭さを増すのか、網膜に送られる像は、いやにスローに動いていた。カトルのテンポの問題ではないと思いたいが、もしかすると、醸し出すゆったりとした雰囲気も、時間軸に影響を与えているのかもしれない。
彼なりのテーブルセッティングが終わったのか、引き返してきたカトルは、研究室から出てきたヒイロがのったりとうごめいているものを手にしているのに、ようやく気がついたようだった。
「ヒイロ、その子は? 誰かの依頼だったっけ、それとも新入りさん? ……なんて、聞くまでもないかな。キミのことだから後者なんだろ」
ヒイロは基本的に、こういうあからさまに生物じみたものを創る仕事は請けないのだ。
“平常”と“笑い”の間を行ったり来たりするカトルの弾むように明るい声は、タンタンタンとタンバリンを打つような、小気味良い跳ね方をしている。
登場した楽器につられ、ヒイロ本人さえ我知らず、現れた偶像の指先は指揮棒に化けていた。現実には、微かに指をこすり合わせただけのヒイロが、カトルに肯定の視線を向けた。
「相変わらず突発的だね」
ボクは構わないんだけど。と、付け足して、ヒイロのほうに近づいて、「はじめまして」と、あいさつをしながら手を差し出した。
「よろしくね」
うごめいているうちの一本の触手の先をそっと握り握手をする。
「ヒイロ、この子は、どんな特技がある子なの?」
「特性だろ」
突っ込むヒイロも本当は、カトルにならどんな言われようをしてもいいと思っている。ヒイロと会話が成立しているだけで、奇跡的な光景なのだ。人と会話することも非積極的なヒイロから、これだけ、数々の突っ込みを入れられている存在も希少すぎるもの。
「じゃあ、その“特性”を教えてよ」
正面からカトルと引き合わせている、コレのことを、ヒイロはたんに『照明器具』だと説明した。実に端的である。照明器具が自分で動き回る必要がどこにあったのだろうか? しかし、カトルは疑問を持たないらしい。素直に納得し「それは、便利だねぇ。すごい、ヒイロ!」と、新入りさんを大歓迎している。
カトルは両腕を前へと突き出した。ヒイロが無造作にそれを掴んでいたのとは対照的なカトルの仕種。まるで赤子を受け取ろうとしているようだった。
伸ばされたその白い手が自分に危害を加えるものではないと、この物体にもわかるのか、数本の手とも足とも判別できない触手を、ずすずすとカトルの腕に絡めながら移動してきた。
「よかった。仲良くしてくれるんだね」
感触はオリジナルモデルである海の幸とは違い、ヌチャっとしていない。そのお陰で粘液でシャツがぬめってしまわないのは有難かった。
「触手の表面は一見滑らかにできているが、吸盤のような役割りと、ヤモリの足の原理を使って、どんな場所でも張り付くことが出来るようになっている」
「うん。――大丈夫。痛くないよ――。その、吸盤の要素とヤモリくん的要素を場所によって使い分けるんだね。今は吸盤をつかって落っこちないようにボクの腕に掴まってるみたい。この子、見た目はなんだかタコみたいだね」
何となく実写的ではなくて、デフォルメしたイラストのタコにそっくりなのだ。どうしてか、ヤモリの特性も盛りこんだはずらしいが、そっちの雰囲気はまったく影も形もない。ヒイロの生み出すものが理解不能なことになっているのは今に始まったことではないので、そのとこに対してカトルも特別な疑問を持っていないようだった。
カトルの腕を上へ上へと這いずって、肩まで触手が及ぶと、ヒイロが「止まれ」と言った。
ぼそっとした小声だったにもかかわらず、タコもどきがピタリと動きを止めたのは、さすが、創造主の貫禄だ。
「何か摂る?」
ヒイロに向かってではなく、カトルはすぐ真横にあるソレに話しかけていた。
「熱エネルギー、お日様の光、……ん? それなのに暗い場所も好きなのかい? えぇっと、それから、じっとしているのが好きなの。調度よかった。今日は日光浴にはぴったりだろ。それじゃあさっそくキミもあそこに行こうね。お友達がいるよ。とても良いお天気でよかったね」
腕の中に異形のモノを抱いて穏やかなものだ。カトルは結局これを、動くヌイグルミ程度に思っているのかもしれない。
「ヒイロもおいでよ」
なんて、なかば、強引に誘われたヒイロが、日光で温められた椅子に座ってもカトルのほうは席にも着かずテーブルの脇に立ったまま、小首をかしげ、心ここにあらずという面持ちをしていた。
何だ? と、ヒイロは疑問を感じたりはしない。そもそもカトルが一人でチョロチョロしている姿なんて、アレが来てからというもの、ほとんど目にしたことがないのだから。一緒に暮らしているヒイロが一番そのことをよく知っている。
カトルはここにもう一人いるべきモノを迎えに行こうとしているのか、自らやってくるのを待っているのだろう。
「何をやってるんだ」
「“彼”?」
「ああ」とヒイロは瞳の動きだけで返事をする。
カトルは少し弱った顔して、
「フロートの救出……」
口をきゅっと結んだ。
カトルが口にしたフロートというのは、この屋敷の中でも古株になるヒイロの創造物のひとつ。名前自体はヒイロの了承を得ていないカトルの手前勝手な命名である。
別け隔てなく敬意を表しているが、これは別に生物ではない。綿のように柔らかで空気のように軽い物質でありながら、テグス糸のように細くした状態でも、双方から象が引っ張り合いをしても切れることがないという強度を持つ、特殊な繊維であった。優れている点の一つは形が自在であること。発想次第で使用方法はいくらでも広がるから、フロートはなにかと重宝されているモノであった。
そのフロートが危機に陥った経緯とは――。
話は少しさかのぼる。
朝食をすませてヒイロが研究室に入るのを見送ると、貴重なる時間の隙間を見つけたカトルは、心地好い外の様子に感化され、ハンモックを作りたくなった。木々の間に吊るしたそこに寝て、湖に浮かぶ小舟のようにゆらゆら小さく揺られながら、自然と一体になったような気分に浸れるのは、どれだけ心地が良いだろう。そんな光景を想像するだけでカトルはウキウキとした。
不安定な状態になるつり床だからこそ丈夫なのが一番と、材料としては申し分なさそうなフロートをカトルは選んだ。ヒイロの書棚から資料になりそうな本を引っ張り出して、“彼”の協力のもと土台を作り上げた。
いざ、適当な木を庭から見繕い、それを固定させようとしたとき、強風が吹き、ハンモックは踊るようにはためくと、あれよあれよという間に、高い位置にある枝に――まるで、ヒステリックな人間が八つ当たりをしたように――絡みついてしまったのだ。動揺の声を上げていた短い間の出来事だった。
ため息さえ飲み下してしまった。忘れてはいけなかった、野外では上昇する気流も室内の比ではないのだ。材料は空気のように軽いのであるから。
随分と高い位置へと吹き飛ばされたものだ。梢に絡みついたクモの巣のよう、ネット状のものが枝分かれしたところに絡みついてしまったのだから、ひょいと取るというわけにもいかない。見上げる高さとの兼ね合いを考えても、時間を喰いそうな作業になることは容易に想像できた。
いつまでも呆然と仰いでいる場合ではないとカトルが我に返ると、木に登って枝にこんがらがっているフロートをなんとかしようとした。
それを制したのが隣にいた“彼”だった。
ヒイロの屋敷内に居るモノの中で最も特異な存在といえるかもしれない彼は、トロワという人型をしたものであった。
トロワはカトルの胸より下の高さに頭の位置があるような子供であった。それなのに、身体のサイズが不釣り合いな落ち着きと、大人びた表情をしていた。
折りしも天気は上々、日光を欲しがるモノや、嫌うモノがいたりして、こういう日は仕事が多い。少しの時間を使って楽しもうと思っていただけなのだ。時間無制限で網をはずしている場合ではないのだ。だからカトルに代わり、変形する知恵の輪を解いてくれる役を、彼がかってでてくれたというわけだった。
「ボクがうっかりしてたんだ。大丈夫かな。あんなの一人でなんとかできるんだろうか」
心理的な保障を求めるようにヒイロを見る。彼は、テーブルの上を占領する異形の物体のモノの中で、表面積を最大にすべく、触手を限界まで八方に広げテーブルに張りついているモノを凝視していた。
「貪欲なヤツだな」
「太陽光を少しでも多く享けるため能率の良さを求めてる。って、言ってあげたら。けなげじゃないか。かわいいよ。――それで、心配しなくていいってこと?」
ヒイロの無関心な態度をカトルは良いほうに解釈した。
「ところでさ、ヒイロ。今日みたなに天気のいい日はいいけど、長雨なんかが続くと、この子は栄養不足になるよ。こういうことが出来ないんだから代わりに、熱を使ったりして、エネルギーを補給する必要が出てくるよね。そうするのに適した環境は、温度からいっても、早産だったときなんかに新生児をまもるのに使う保育器みたいなものがよさそうなんだけど。ヒイロ、知ってる? それに似た条件で理想的な熱を共有してあげようと思ったら、体温で暖めてあげるのが一番いいんだ。カンガルーと同じことまでしなくても、大丈夫だと思うんだけど」
日光浴するモノに両手を添えると、持ち上げて「よいしょ」と、おんぶさせるようにヒイロの背中に張りつかせた。
「頭の上や、膝の上でもいいけど」
顔を覗き見て、カトルはにっこりと微笑む。ヒイロと目が合うとカトルは首を横に振った。
「ダメダメ、ボクは。ヒイロも忙しいってわかるんだけど、ボクも昼はずっと動き回ってるし、夜は先約があるから。相席の許可がおりれば構わないんだけど。どうかなぁ……。その点ヒイロは大丈夫だろ。なにも抱っこして寝てほしいなんて、キミに言ってるんじゃない。読書をするときにでも、そうしてくれるだけでいいんだ。――それにキミ、本当はわかってたでしょ」
お見通しなんだからと、大きな瞳は言っている。有名な『考える人』のような面持ちでヒイロは黙っていた。カトルは頭の中で十まで数えた時点で、百まで数えるほどの暇はないと、早々とカウントを断念した。
「それじゃあヒイロ。考えておいてね」
よし! と、カトルは手のひらで体側を打って、仕事を再開すべく腕枕するような仕種をした。
(せっかくトロワが頑張ってくれてるんだから、するべきことをしよう!)
カトルは次の段取りを考え始める。
空にぽっかりと浮かぶ、――白い和紙を手でちぎって作ったような――ウサギ似の雲が流れていく。鼻を鳴らして空気を吸い込んでみても、トロワが降ると言っている明日の雨の香りはしない。今の空の様子では、天気が崩れるようには見えなかった。
初めて深緑の色をした瞳と逢ったときに、胸がざわざわと騒いだことは忘れられない。カトルの唯一の体験であったから。心臓がものを言うと知ったのはそれからだ。
端正な顔立ちにかかる、マスタードブラウンの長い前髪が生むのは陰と雰囲気(ムード)だ。そげ落ちきらぬ頬のラインと身長を個人差や個性だと突っぱねられたら、どこを指して子供であることを証明したものか。虚偽の疑いをかけられたら弁護不可能だろうと思われたが、懐かれているカトルには『トロワはこんなにも子供らしい』と主張することができた。
表情は乏しいが、小さな彼はカトルを慕っているようで、カトルが傍にいることを好む。お荷物になるつもりはないので、『カトルの傍にいる』のではなく『カトルが傍にいる』のがいいらしいのだ。垣間見えるのは、トロワのいっぱしのプライド。
だけど、それでも子供らしく素直だといえるのは、決して『カトルなんて必要ない』と虚勢をはらないところ、『好き』なことを隠さないところ、まっずぐに『求める』ところ。そんなところがあるからだ。
カトルの姿が見えないと、なんだが物足りない顔をしていたり、意識でカトルの気配を捜している。それに、よくカトルの言うことをきく。
なんだか甘え下手な大型犬を見ているようで、可愛いのだ。懐かれているカトルからみれば、他のヒイロの研究成果たちの態度となんら変わりのないものだった。態度はふてぶてしくたって、『とても可愛い子』なのである。
ちなみにヒイロが創ったという以上、トロワはただのモノではないということ。
現在の科学や魔法においても、天候自体を制御することは出来ない。しかし、高い確率で事前に天候を予期することができれば、天災を回避することも出来るだろう。そこまでたいそうな利用法じゃなくても、天候に左右される物事は星の数ほどあるのだから、多くの益を生むことになる。
なんてことを考えた様子は無いし、形に意味があるのかもヒイロのみぞ知るところだが、トロワの名目は人間の形をした天気予測機だった。
これでますます、ヒイロの召喚師疑惑が濃厚になったのは言うまでもない。
指差し点検を終えると、カトルはすぐにトロワのところへと向かった。
屋敷内を無作法に駆ける罪悪感が生まれる気持ちにゆとりもない。開け放ったままのテラスを通り、ヒイロの目前を行く。踏みしめた草の鳴る音も、自分の呼吸音も、周りに響き渡っているような気がするほど、カトルは急いで走った。
もともと家屋に近い場所でハンモックをつるそうとしていたから、これだけ急げばすぐに、木の上にいるトロワの姿を認めることができた。
無表情といってしまうとそれまでの、表情の乏しさで。今も足場の悪い場所なのに、不安のない様子でトロワはそこにいた。
半透明の糸を巻き取るように、伸ばした両腕が一度、二度、頭上で大きく動いた。後から抜くつもりか、腕はそのままの状態で振り仰いでいたトロワの顔が正面へ向き直るのを見て、カトルは調度終わったのだと思った。
この後、大きな声でトロワを呼ぼうとしたカトルのために、彼は大変な思いをすることになる。
カトルの声と重なって、急な突風が吹き抜けたのだ。
発声のタイミングを窺っていたカトルの声帯は、声を開放した瞬間にぶつかってきた強風に驚いたせいで、
「ト――――――――!」
と、その一語を悲鳴のように引っ張ってしまった。
緊急事態発生の合図と取られかねないカトルの大声は、突然の強い風圧をしのぐことなど造作もないトロワにとっても、厄介な兵器となった。
カトルの声に気をとられ、トロワの体勢が崩れた。枝から滑り落ちる寸前で反射的に腕で身体を支えたのだが、ずずっと滑り、指先がかろうじて枝を捉えているという状態になってしまった。
フロートの一部が木のささくれに引っ掛かかり、まるで手錠をはめて、木から吊り下げられているような感覚。
けん垂の要領で上へ上がることも困難な無理な姿勢に、トロワはだらんとぶら下がったまま動きを止めた。鉄棒にぶら下がっての我慢比べのようだが、高さが子供のお遊戯ではない。
反動を利用すれば上がれそうな気もするが、トロワに動く気配はなかった。
埒があきそうにないから、枝に掛かっている指を開いてみようかとトロワは考えていた。フロートから腕がすっぽり抜けて地上に落ちたとすれば、両足を駄目にするくらいは免れないかもしれないが、自分なら死にはしないだろうという自信はあった。
「トロワッ、動かないで! ボクが行くまでじっとして。手を放すとか考えてたら承知しないよ!」
図星をつかれ、ちらりと眼下へ視線を遣った。トロワは珍しく大きな声を出すカトルを見た。
「無理だ」
カトルの予想外な落ち着いた声だった。
「無理なんてことないさ。やってみなくちゃわからないだろ! いいから待ってて。危ないから動かないでよ」
どの口が強がりを言うんだとばかりに、カトルは手のひらの汗を拭う。
「どうする気だ。ここまで来られたとしても、役に立てると思うのか」
「黙って! トロワ、ごちゃごちゃ口も動かしちゃダメだってばっ」
声を張っていないから、カトルには良く聞えないのだ。
うつむくと喉が詰まる。
それを我慢してグイッと下を見ると、自分を助けるために、ここまでやってこようとしている、カトルのつむじが見えた。
わが身を大切にしない不精な考えが、こんなにもカトルを心配させているのだ。
トロワはため息をつく。
上を向いて空気を肺の中に取り入れた。
「来るな。おまえのほうが俺より重いと言ったんだ。木が折れる」
「バカーーッ! 今は笑えないだろーッ」
聞き取れるはっきりとした声を出してくれてと思ったら、悪い冗談だ。大人びた表情でトロワは言っているに違いない。めったに笑ったりしないくせに、こんな状況の中、トロワの口許には笑みが掠めている気がした。
「だから、カトルにケガをさせたくないんだ、俺は……」
面倒そうにつぶやいて、トロワは肘を曲げるように力をためると、身体をしならせ大きく反動をつけた。
試薬を与えてみたサボテンをテラスでまじまじと見ながら、熱心にペンを走らせていたヒイロは、そろって戻ってきたカトルとトロワを目にすると、観察の中断を覚悟したのだった。
トロワの手の甲には軽いすり傷が出来ていた。
「――血液は空気に触れると赤くなる性質がある」
指し棒代わりのペン先を、視線とともに傷口へと向ける。別段、怒っているわけではないが、――新たな発見をしたというニュアンスを含んだ――ヒイロの小さなトゲはカトルをチクンと刺した。
ケガの経験は初めてだったが、普通に外傷薬を使っても問題ないだろうとヒイロが判断してくれたお陰で、手当て自体は簡単にすますことができた。
こんなことになった経緯をカトルが話している間、終始、責任はカトルにはないと主張するトロワの言葉少なな横槍が入っていた。そのたびに責任の所在について二人が討論を始めるものだから、内容のわりに時間のかかる説明だった。
しびれを切らせたヒイロが、「それは後にしろ」と無理やり前進させていなければ、脱線したままベッドまで持ち越していただろう。
「カトル、おまえは“大声は武器だ”という言葉を座右の銘にしろ」
多言は命取りと心得よと、態度で示されている仲介屋のデュオより、ずいぶんましに違いない。
ヒイロに指摘されるまでもなく、そうしようと思っていた。必要以上に落ち込むつもりはないが、反省はしている。「もっともです」と、首を縦に振って、目に見えてカトルがしゅんと小さくなるのはしかたがない。
だけどその様子に、トロワは異を唱え、いつもよりずっとムスッとした顔でヒイロを見た。
「何度も言っているが、たんなる俺のミスだ」
そもそも表情の変化が小さいトロワは、ともすれば不機嫌だと思われやすい。が、今は目に力が入っている。
どうやら、かばってくれているつもりのトロワに、カトルは驚きつつ慌ててしまった。
「トロワ、キミが怒ることはないんだ。ヒイロが正しいんだよ」
強く非難しているわけではないし、もちろんヒイロはカトルを苛めているわけでもない。独特の強い口調で言い放っただけだ。こんな口調でも、こんな表情でも、ヒイロはとりたてて怒ってなどいない。
困ったとこに本人同士は気にしていないというのに、見た目には高圧的な態度に見えるのだろう。カトルがヒイロに責められているようにトロワの目には映るのだ。
なんだ、こいつは? と、心の中で思ったのか、常駐の眉間のシワが心持ち深くなっているだけだが、ヒイロもわずかに、いぶかしい顔になっていた。
二人が視線を付き合わせていると、コワモテの頂上決戦のような風情がある。
苦笑するカトルはいつの間にか、ヒイロとの間に割って入っていたトロワの肩に後ろからそっと手を乗せた。
見上げる角度が力の差そのままなのに。
「ヒイロはボクの主人(マスター)なんだから……」
確かにこの家での力関係は、トロワの中でもヒイロ、カトルの順だ。カトルが言うには二人の間にも、はっきりとした上下関係があった。
「ボクは複数年契約の雇われの身ですから」と、冗談めかしてカトルが言っていたことを思い出す。
一番、権限があるのは当然、ヒイロである。それなのに護らなければならないのは逆、まずはカトルだと、トロワの中では誰に教えられたわけでもないのに優先順位が働く。
わが身よりもその人を大切にしている証拠だろう。
「……ガードドッグか」
トロワの気持ちを察したのかヒイロはそれ以上なにも言わなかった。
出前の器を下げに行った先で、家人の注文を知らなかった者に、何の用だ? と、すごまれたような……。
とばっちりを食った状態のヒイロを気の毒だと思うのに、顔はほくほく緩んでしまっている。気がついてカトルは、先程から湧き上がってきている胸をくすぐるような感情が“喜”を司るものだと気がついた。
「トロワ。ありがとう」
近づく体温を感じて、トロワがカトルを振り返ろうとした。
身体の角度を変えきらぬうちに、背中からトロワの身体を抱きしめて、カトルは小さな肩に顔を埋める。
「はやく治るといいね」
姿勢を低くして彼の肩に顎を乗せたまま、カトルはトロワの手をとると、目線の位置まで持ち上げて絆創膏を眺めていた。
目の高さで重なっている二つの手を深緑の瞳もじっと見つめていたが、彼はなにも言わなかった。
夜になる頃には新入りさんもカトルによって命名されていた。気に入らなければ使わなければいいだけのことだから、ヒイロはこういうことにはノータッチなのだ。だから、実際にはカトルしか口に出して呼んでいない、ぬけた響きのモノだっている。
寝室に引き上げてくるときに名前を発表したが、熱心な聴衆はいなかった。筆頭者のヒイロは、もう一度研究室にこもって作業をはじめた頃だろうか。
タコ似の照明具である彼は壁に張り付き、わが使命ここにありとばかりに、こうこうと寝室を照らしている。
「照明を絞ってくれるかな」
カトルの言葉がわかるのか、白い照明が徐々に弱まり、ランプの灯に似た柔らかいものへと性質を変えた。
セミダブルのベッドに横になると隣にいるトロワの手を探り当て、顔の前に移動させた。絆創膏はカワイイけれど痛々しいと、無言のカトルの瞳が言った。
ほの暗い部屋の中、目を開いたままで、静かに天井を見つめているトロワの横顔を見る。
「まぶしい?」
「いや」
カトルは彼の視界の中に自分の姿がないことを逆手にとって、涼しげな目許の長いまつ毛をじっと見つめた。
「カトル、これに懲りたわけじゃないだろ」
「えっ?」
急に尋ねられ、カトルは口ごもってしまう。
「トロワ、キミはそうじゃないのかい?」
細かい作業。根くらべの果てに、巻き添えでケガまでして。
「ハンモックを作りたいんじゃないのか?」
トロワの質問にちゃんと答えない癖は、ほめられたものではないと思うカトルなのだが、空気に流されてしまうのだ。
「一度くらいは体験したいね。今度は無難に丈夫な紐で網を作るか、手間を省いて麻布でも使うか。……そうすれば、失敗しないだろ」
「せっかく作ったものは、もう用なしというわけか」
子供の質問だか、大人の詰問だかわからない。
小さい子の疑問は鋭いんだから。と、カトルは心の中で大声を張り上げるが、それに隠れて、口調や声の響きに頬を染めている、もう一人の自分がいた。
カトルは追い詰められた頭で考えた。
「そうだね。いきなり無駄にするのはよくないよね。……試しに、重石でも下げてみれば何とかなるんじゃないのかな。ちょっと、ビジュアル的には変かもしれないけどね。どこにどんなふうにっていうのも考えなくちゃいけないだろうし、まったく成功しない可能性もあるだろうけど」
まっすぐに上を向いていたトロワが寝返りをうち、カトルの方へ身体を向けた。
ずっと横顔に話をしていたカトルは、急にトロワと正面から目線が合ったものだから、瞳が真ん丸になってしまった。
「明日は雨だ。だから、やるなら……そうだな、地面の乾き具合からいって、三日後、しあさってあたりがよさそうだ。それまでゆっくり策をねればいい」
少しトロワが笑った気がした。
「ありがとう。お疲れさま」
礼を述べると発光が弱まり、明かりが完全に消えた。
闇の中で意識だけでトロワの存在を探りながら、寝心地のよい体勢を求める。
「おやすみ」
「ああ」
カトルはトロワの頬に軽く――錯覚と言い切れるような、ほのかな感触だけの――キスをする。
トロワに体温をわけながら、カトルは「あたたかい?」と、尋ねてみたが、彼は瞼を閉じて、何も言わなかった。
ヒイロとカトルと同じ食事も摂るトロワなのだが、他に特別に必要な栄養分がある。それを供給しているのはカトルだから、トロワが懐いているのには、そのへんの要因が大きいのだろうと思っていた。
一方的にカトルが緩く抱きしめるように、トロワに身を寄せているようだったが、しばらくすると違った構図になり始めていた。
体温が必要なトロワは、意識がなくなると、本能で動く。
体勢が変わり出したということは、
(眠ってしまったんだ……)
と、思いながら、カトルもたゆたうようにゆっくりと、眠りの中に身を浸し、意識が薄れていくのを感じていた。
夢うつつの状態でカトルは、いつの間にか静かに移動して、新入りさんが足元に忍び寄ってきているとこに気がついた。
日中に十分、元気を蓄えたはずなのに。ベッドに潜り込むつもりなのだろうか? 同じエネルギーが必要なものを抱いて寝るくらい、カトルは一向に構わないのだが。
(トロワは好き? この子がいても大丈夫だろうか……。トロワは……)
しきりに問いをくり返す。
トロワが嫌がったときには理由がなんであれ、ヒイロに預けてしまおうか。
(トロワに、聞いてみなくちゃ……)
夢の中で、ぼんやりカトルは考えるのだった。
*END*
2002年4月28日に発行したものを、
少し加筆訂正しました。