しあわせのカタチ トロワとカトルは寄り添うように眠っていた。小さなトロワの身体をカトルがふんわりと抱きしめるようにして。
そこに、もぞりもぞり……と、足先を舐めるモノが来た。
いや、すでに来ていたのだそいつは。
それはトロワからすればタコ似の恋敵だった。
いつ下ろされたのかわからないカトルのズボン。それがないとトロワが知ったのは、触れ合うカトルの素足の感触からだった。素肌同士でなかったからトロワにはわかりにくかったのだ。
貪欲に体温を欲している。タコもどきはトロワ同様、熱で成長する類の生き物だ。鋭いトロワの虚をついて、より暖かな温もりを求め、カトルのズボンをじりじりとずらしたのだろう。
普通にくっつくだけなら百歩譲って大目に見れたかもしれないが、ズボンに手をかけるとは許しがたい。
だからだろうか、気がついたトロワはあからさまに眉をひそめた。それは普段、表情に乏しい彼にしては、あまりに珍しいことだった。
――どのくらいって、残暑の秋に降る勘違いの雪。
当然のように蹴りはがし、トロワはそいつをベッドの下へと突き落とした。
カトルから『カイトくん』と実は立派な命名をされているタコもどきは、布に残る体温にしがみつくように、ズボンに絡まりながら転がっていった。
(明日は一日天気がいいから、好きなだけ日光浴でもしていろ……)
面倒臭くてトロワは声には出さなかった。
床の上に転がり、布に残ったカトルの体温を絡まりながら抱く、タコ似の照明。朝カトルは、この光景を目にして驚くだろう。それとも先に素足が丸出しなことに、恥ずかしがるだろうか。
カトルの寝ぼけた声がした。
「トロワ……なに?」
「いいや」
ベッドの下でうごめくタコもどきを尻目に、静かなる勝者トロワは目を閉じる。カトルの体温をより近くに感じるため身体を寄せて。
カトルが寝ぼけたまま、ゆっくりとトロワの頭を撫でた。愛おしむ動きで、ゆっくりとくり返される。
「……寝よう、トロ、ワ……」
舌足らずな甘い声がトロワの頬をくすぐる。トロワはカトルの華奢な躰に腕を回して、背中の感触を確かめるように抱きついた。
トロワはカトルの腕の中におさまって、潜り込むようにして、静かに鼓動を奏でる胸に頬を寄せた。
ただ、暖かくても駄目なのだ。
カトルじゃなければ……。
トロワにとって至上の場所は、カトルの腕の中だった。
* * *
立場が逆転したのはいつの頃だったろう。
それは毎日の生活の中でのことで、当たり前に抱き合って眠り、二人は一緒にいた。
トロワに添い寝するようにしていたはずの構図が変わりつつあると、カトルが気づく前に、二人の関係は完全に逆転していたのだ。
「トロワ、いつの間にあんなに大きくなっちゃったんだろう……」
「……気づけ」
やはり毎日二人といるヒイロは、びっくりしてそれを報告してきたカトルに無表情にそう言い放った。
日々、二人を見ていたヒイロは、とっくの昔にトロワがカトルの身長を抜き、自分を見下ろすほどの長身になっていたことに気がついていた。いや、普通、そこまで変化すればわかるだろうと、ヒイロじゃなくても言いたくなる。どうやって、その、のん気な性格は形成されたのだろうか。ヒイロからすれば、トロワの成長のスピードよりも、カトルの鈍さ(良く言えば、おおらかさ)のほうが、研究対象になりそうだと思った。
「子供の成長ってはやいんだねぇ」
カトルは一児の父の心境だ。(母に見えるというのは禁句かもしれない)他にも世話をするものがある中で、トロワが一番カトルに近い位置を確保してきたものだ。平等にみんなをみているつもりでも、多少なりともカトルがトロワを特別視しているのはいなめない。
「違うよ、ヒイロ。同じくらいになっていたことは気がついていたんだから。ただね。その後の成長がボクの予想を上回っていただけでね。あんな、ちっちゃかった子が、あんなになっちゃうなんて」
「見上げるに至ったか」
「……そう、なるねぇ」
ヒイロは黙ったまま。端正な顔がいつもの難しい表情を作っているだけだ。このイカメシイ顔がヒイロのデフォルトである。
「寝るときが変なんだよ。こう」
ぎゅっとカトルは空気を抱く。
「だっこして寝てたのに。逆にぎゅっとね」
前に近い、トロワを抱擁する体勢を取ろうとして、カトルは何度かベッドの上部に頭をぶつけている。トロワとの上位の取り合いになっているのだ。
「言うことを聞いてくれないんだ」
ヒイロが微かに眉を寄せる。それは何だ? という表情だ。
「だから、ボクが抱っこする人でしょ、って言うのに、ちっとも、だよ。あの、涼しい顔をして。ちっとも、わかってくれないんだ」
「無視してるんだろ」
「ヒイロ、トロワはそんな悪い子じゃないよ!」
「頭の悪い奴に創った覚えもない」
「頭はいいの! ヒイロの次にボクも知ってるよ。ボクだって、ずっとトロワと一緒だったんだもの」
一番と言いたかったけれど、創造主のヒイロには敵うまい。トロワはヒイロが創ったモノだ。
「どうしてヒイロは、ボクが好きな綺麗な顔やスタイルにトロワをつくっちゃったのかなぁ。ボクはトロワに見られていると彼よりも弱い立場にいるような気持ちになるんだ。何かヒイロの魂胆?」
「そんなものがあるか」
何を言い出すんだこいつは、という口調だが、ヒイロがカトルの相手を嫌がってはいないのは確かだ。
ところでカトルはというと、別段ヒイロの創造物というわけではなく、彼のアシスタント。少年なのに、柔らかい印象が強いという特徴をのぞけば、まっとうな人間だ。
「トロワは背が高いから、ボクの手の届かないところの物は取ってくれるし。ボクが取っていると、支えてくれるしね。頼りになるんだよ」
いつの間にかノロケ話か……。と、思うかもしれないが、ヒイロはこんな毎日を送っている。
「で、ずっと一緒のアイツはどこに行ったんだ」
ヒイロに指摘され、カトルは思わず後ろを見る。
まだ、彼に姿はなかった。
「黙ってどこかへ行っちゃった」
先ほどトロワは、ふらりとどこかへ向かったのだ。居るはずがない。
無言で行動するのはそれほど珍しいことではない。言わばトロワの習性だとカトルは思っているし、ヒイロも適当そうにだが、そう言っていた。自分本位な可能性もあるなと、ヒイロは呟いていたけど。長い付き合いで、二人ともトロワの行動には、もうすっかり慣れてしまっていた。
くり返すうちに、トロワには神出鬼没なヘキがあると、カトルは単純に理解してしまったようだ。学習してしまったと言えるかもしれない。本人に悪気はないようだし、悪さをしてきたという前例はない。と、思う。
ヒイロがチラリとテラスに視線を投げた。
「帰ってきたようだぞ」
その言葉で振り返ると、カトルの目の前には布の塊があった。さらに視線を上げると、それを抱えているのは、今、話の中心になっていたトロワであった。
「ど、どうしたのコレ?」
カトルの声を聞きながら、トロワはその横を素通りすると、空いているソファーに布の山を運ぶ。
「通り雨が来るぞ。その前に取り込んでおいただけだ」
「言ってくれればボクがやったのに。ありがとう、トロワ」
カトルはトロワに小走りで駆け寄った。中腰の姿勢のままでいた彼の頭をグリグリと撫でる。
二人を見ていたヒイロは思わず口にした。
「……ままごとか」
二人はお構いなしだが、母親役をする弟と、利口な幼い息子役をする兄の、配役に無理のある“ごっこ遊び”のようだった。
撫でたせいで少し乱れた髪をカトルが整える。まだ、すっきりしないのか、今度はトロワが二度ほど軽く頭を振った。
「言うより、自分で行ったほうが早かったんだ」
「雨がすぐに来ちゃうの?」
「まだ、余裕はある」
それでは言うのが面倒だっただけなのだろう。
天気を読むようなトロワ。実際のところ、トロワは天気を予測するためにヒイロが創ったモノなのだ。なぜ、人間のようなのかはヒイロに聞いてみるしかないが、「そうしたかったからだ」程度の答えしか返らないであろう。(トロワの考えも読みにくいが)ヒイロの考えは誰にも掴めない。こんな二人と苦もなく付き合っているカトルは大人物かもしれない。
ちなみにトロワの予想の的中率は極めて高い。間違えたことなど、カトルも思い出せないほどで。それはヒイロが一流の錬金術師だという証明である。あれらは、どこかこの世でないところから呼び寄せたのではないかと裏では噂がたっているというのは、ヒイロの預かり知らぬところ。噂などに、とことん無関心なのである。
ヒイロが無闇に創ったモノの世話をするのがカトルの仕事であった。それだけではなく、家事全般もこなし、ヒイロの面倒も見ているという、実に優秀な少年なのである。
カトルの天性のものか、ヒイロが生み出したモノとは何とでも相性がよく、彼が面倒を見るとみんな元気でよく育つ。
その中で現在、同居の長さを無視してカトルをほぼ独占に近い状態にしているのがトロワだ。物言わぬ、物言えぬ先輩たちはどう思っているのだろうか。
カトルにべったりだったモノからすると、トロワは邪魔者なのかもしれないが、カトル自身は今も昔も同じようにみんなの世話をしている。変わったのは後ろにいつも人の気配がするということだろう。そう、トロワがカトルの後ろを常にマークしているのだ。カトルに長いシッポをぐるぐるに巻きつけたって、後ろの人物は不快な顔をするでも攻撃するでもない。あたたかとは言えない瞳で、ただ、じぃーっと見ているだけだ。おまけに頼まなくても手伝いまでする。この、カトルをサポートしているという事実だけで、他者をけん制しているのだが。本人はいたって無表情に全てにあたっているのだが、なぜだか、うすら恐ろしいのだ。
ヒイロは母鳥の後を追うようなものだというが。そんな言葉がしっくりきていたのは、トロワがカトルより小さかったときのこと。今となっては親鳥を追い越し、随分と大きな後追い鳥になってしまったものだ。構図的には、ニワトリがひよこを追いかけ回しているに近い。
氷のような印象の整った顔立ちに、容姿もまるでモデルのようであるのに、それもトロワ本人には意味のないことなのかもしれない。
トロワはカトルの、あたたかなところや、感触や、声、色彩まで柔らかなところ、零れ落ちそうに大きな瞳を気に入っている。それにカトルの穏やかな性格ももちろん一緒に居て心地よく、最高に好ましいもので。関心はそれにしかない。後はカトルに嫌われなければ満足なのだ。もっとも同じくらいたくさんのトロワの魅力を、カトルは上げることができる。お互いにべったりでうっとうしくないのは、やはり、相性の問題なのだろう。一緒にいても違和感がないのだ。ヒイロといるのと同じで「家族みたいなものだもの」と、カトルは言う。ヒイロの家に居るモノがみんな、カトルからすれば家族なのだから、大家族も良いところだろう。
「もう乾いてるのかなぁ。だったら、たたんでしまうよ」
カトルは洗濯物の処理にとりかかる。
「トロワってすごいよね。キミが来てから、夕立に困らされたことだってないし、長雨の晴れ間にうまく洗濯はできるし。全部トロワのおかげだよ」
「礼ならヒイロに言え」
「うん。トロワとヒイロに感謝してるよ」
性格を表すように、カトルは洗濯物を丁寧にたたむ。
「トロワ自身もすごいんだって、自覚したっていいよ。……あっ、いない……」
顔を上げたら話し相手は消えていた。
「トロワなら向こうへ行ったぞ」
「教えてよぉ、ヒイロぉ。一人でしゃべっちゃったじゃない」
「いつものことだろ」
「……う~ん、違うとは言えないか。……でもねえぇ」
「服を伸ばすな」
熱弁をふるおうとしたカトルの力は、まず握られていた衣類に威力を及ぼしていた。
「ああ、ごめん」
両手を伸ばして気の毒な衣類を広げる。
「大丈夫。ボクのだったみたい。ちょっと襟ぐりがのびちゃったから、部屋着にするね。……だらしなく見えるようだったら、雑巾にするから」
「…………」
ヒイロは返事をしてくれなかった。代わりに微かなため息を零したのがわかった。
そんなのん気な遣り取りをしていると、しばらくしてトロワが部屋に戻ってきた。その手にはティーセットが。
「ありがとう、トロワ! ボクたちのために用意してくれたんだね」
「調度いい。もうそろそろ研究室に戻ろうと思っていたところだ」
「ああ、トロワって気が利くし、いい子だよねぇ。こっちにおいでよ、トロワ!」
たたみ終えた洗濯物を横に追いやって、カトルは自分の横にトロワを招く。
ぽんぽんとソファーを叩いて、カトルはトロワを呼び寄せる。
「“いい子”というデカさか……」
ヒイロでさえ見上げる長身の彼を“子”と呼ぶカトルは、なんだか親バカに見えるとヒイロは思った。創った自分よりバカだ。少なくともヒイロはトロワを同じ男として見ている。
ふと見たトロワが微かに不満の色を湛えているのが、同じく仏頂面のヒイロにはわかった。この二人も妙に馬が合うのだ。
「どうした?」
「“子”というのはやめてくれないか。ガラじゃない」
「もっともだな」
「ガラでいい子になれるわけじゃないんだよ、トロワ!」
「カトル、いつまでも子供扱いするなと言ってるんだトロワは」
「大きくったって、関係は変わらないんだよ」
「そういう考えが嫌なんだろ」
「イヤなのトロワ?」
「…………」
「トロワは子供じゃない、身体にあった知能がある。考えも変わる」
「そうなの? トロワ……」
「……そうだろうな。いつまでも昔のままじゃない。変わっていくのが自然なことだろう」
「じゃあボク、今までキミのイヤなことしてたんだ」
カトルがうつむく。
「そんなことはない。俺も深く考えたことはなかった。違和感に気づかなければ、これからも今のままでいたかもしれない」
「本当?」
「本人が言うんだ。そうなんだろう」
何でも我関せずの性格のヒイロが、珍しく積極的に会話に参加している。二人でしゃべらせていると、埒があかないと思っているのかもしれないし、メロドラマが始まると思っているのかもしれない。……それもあながち、間違いではない。
「ヒイロも言うんだから、そうなの」
哀願するような眼で見上げたカトルの視線を受けて、トロワはうなずいた。
「そんな眼をするなカトル」
カトルの表情が曇ることが、トロワにとっては唯一の辛いことなのだ。
ヒイロの意見はカトルはもちろん、トロワにも通りやすい。殿下の宝刀なのだ。やじろべいの中心のようでもある。
『知能を低く創った覚えはないが、トロワは想像以上に、自分の置かれた環境に頓着しない性格だったようだな……』
と、ヒイロは思う。
トロワには、やっと気づいてくれたかと、ヒイロは付け加えて思っていたかもしれない。
カップに口をつけたヒイロの眉間には深いシワが刻まれていたが、それはいつものことだった。
と、こんな話があった後も、トロワとカトル、二人の構図や距離に変わりはなかった。それは、無意味だったのかと思わせるほど。結局は、自然体でべったりなのだ。いや、ひとつだけ変わったことがあった。カトルはトロワを”この子“扱いしなくなった。上等だろう。
でも、一緒に眠るのは変わらない。これはカトルのお仕事。トロワの生きる糧なのだ。しかし、実はカトルと眠れないのであれば、日光浴をすればいいだけの話なのだが。だから、実際のところは精神的な渇望の問題が強そうだ。
最も今さらトロワを取り上げられてもカトルも困る。馴染んでしまったのだ。一人で眠るより、トロワと一緒がいいと思う。
タコさんことカイトくんの行方も気になるかもしれないが、体温に関しては目下、日光とヒイロのお世話になっている。テラスで日向ぼっこをしたり、ヒイロの背中に張りついたり、膝に乗ったりしている。結構、いや、かなり命知らずな物体だ。それに時々トロワの目を盗んでカトルにまといついたりしながら元気なものだ。暗くなれば、彼本来の仕事である照明の役目もバッチリこなしている。ただの変なデフォルメタコではないのだ彼も。
――――そして、夜は来る。
「わかってるトロワ。だっこするのはボクの役目! トロワは、おとなしくしてればいいんだよ」
「湯たんぽを、そんな使い方をしては不自然だろ」
「ボクは湯たんぽじゃないの! 誰に聞いたのそんなこと」
ヒイロ? ヒイロなの? と、カトルは首をかしげている。
「いうなれば、そう、ボクはキミの掛け布団だね。ふわあって、抱きしめるんだよ」
カトルはにっこり笑って空気を抱く。
「寝るか」
無表情なのに、カトルはトロワが少し笑ったように見えた。
はいはい、よしよし、と寝床の準備をし、心地好い姿勢を求めてカトルはトロワを抱きしめた。トロワの真っ直ぐで綺麗な髪に頬を寄せる。カトルはこうするのが好きなのだ。感触とシャンプーの匂い香りが気持ちいい。
当たり前のようにトロワは腕を伸ばして、カトルの細い躰を抱きしめていた。カトルの腕の中は甘やかな香りがする。柔らかな皮膚の感触は、躰全体がやわらかいもののように感じさせ安心感を抱かせた。
おやすみなさいと言い合って、カトルがトロワの頬に優しくキスをして眠りについた。
それからどれくらい経ったのだろう、トロワが布団の中でもそもそと動き出した。
眠ったままのトロワはカトルを胸に抱こうとしている。眠りに落ちると本能のままに動き出すのは、昔からのトロワの癖。
カトルはズリズリと上位から下へと引きずられて、トロワの腕の中に移動させられていた。
めくり上がった上着から白い肌が覗いて、ちょっと寒々しい。それもまあ、暖かな布団の中でのこと。すぐにトロワが衣類を整えてくれた。眠っていてさえ、こういう手間は惜しまない男だ。『カトル限定』と、つくのは当然だが……。
まあ、ここでカトルが気づけば、またカトルがトロワを抱きしめる。これがくり返されるのだが、今日のカトルは眠ったまま、起きる気配はなかった。
……が、トロワは起きた。
ぼんやりとしたまま、抱きしめていたカトルの柔らかい髪に顔を埋める。心地好い感触に、自然にトロワの唇の片端が微かに上がった。
カトルのか細い背中を撫でていると、トロワの腕の中、華奢な躰が身じろぎをする。
「……んン」
少し高い声が上がった。
身じろぐ声は、寝息へとすぐ返る。
安らかな、あどけない寝顔を見ていると、もっと深く触れたいという要求が胸の奥からせり上がってくる。それは抑えるとこのできない情動へ。
トロワの腕はカトルの背中をたどって、自然に下のほうへと伸びた。他とは違う確実に柔らかなカトルの場所に。
調度いい置き場所だとばかりにトロワの手はそこを陣取った。
そんなこととは露知らずカトルは無反応だ。無邪気に眠り続けている。平和に夢の中を漂っているのだろう。安らいだ寝顔がそれを照明していた。
何を思ったのだろう。トロワは何気に手のひらに力を入れた。
「……ンッん」
カトルの片方の柔身がトロワの手の中で当然のようにひずむ。まるで、手のひらの形をつけるように、僅かながらトロワの指の間からシワになったカトルのパジャマのズボンが零れている。
カトルはもがくように足でベッドを掻いた。
「ぁ、んン……」
「カトル」
トロワは小さな声で呼んでみた。
返事はない。
まだ、カトルは眠りの森の住人だ。
無防備に眠るカトルに魅了されたように、見るからになめらかで、柔らかそうな桜色の頬にトロワは静かに口吻けた。
今度は小さな鼻先に。丸い額に。眠り続ける愛しい人の瞼に。優しさを込めて。本能のままに、唇を寄せる。
少しカトルの口許が笑みの形を作った。
それに触発されるようにトロワは、桃色を灯したカトルの唇に、ひっそりと唇を落としていた。
はじめは軽く、まるで羽根がかすめるように。ふんわりと。やさしく。誰にも悟られぬように。
そして、質感を確認するように、何度も、柔らかなカトルの唇にトロワはそっと口吻ける。
そうしているうちに、カトルの躰の中で始めに浮かぶであろう、柔らかい場所を占領していたトロワの手が、思わず力を込めてしまった。
むぎゅり、と掴む格好になり、
「ひゃうッ!?」
びっくりしてカトルの眼が開いた。
「なぁ、なあにぃ」
カトルは寝ぼけた舌足らずな声を出した。
困惑しながらカトルがトロワに尋ねるのは当然だ。トロワは開き直ったのか、カトルのおしりを掴んだ手を、どかそうとはしなかった。ふてぶてしく定位置を保っている。
「なに、トロワぁ?」
それでもカトルは、テンポは遅いが、いつもの穏やかな口調と笑顔でトロワに話しかける。目許をこする仕種がいつも以上にあどけなく映る。少々ぼんやりしているのは、半分は眠っているに近い寝起きのことだからだ。無謀にもこの状況でも無邪気でいられるのもそのためだろう。
感覚は起きているのだろうか?
ああ、自分は見上げているな、と、シャープなトロワの顎のラインを見ることでカトルは確認する。いつの間にか立場が入れ替わったのだろうと考えている間に、また、トロワの手のひらが力を微かに加えた。
それはダイレクトにカトルに伝わるわけで。
「……ひゃ!?」
と、カトルは身をすくませた。咄嗟に背中を丸めるようにトロワの胸に擦り寄る。
「気持ちが悪かったか?」
「いや、あの、気持ちが悪いというか、……変な、気持ちが、する。くすぐったいよ、トロワ。や、やめて」
トロワの手のひらからの感覚もそうだが、耳元から鼓膜を刺激するテノールの静かな囁きに、カトルは身震いがした。顔が羞恥で薄桃色に染まる。
「嫌か?」
「……よく、わからない」
返ったのは、小さな声だ。
頬は先ほどよりも色を増している。桜色が首筋まで色を広げた。
「……カトル」
「…………」
返事を選ぶことができなくて、カトルは身をすくませたまま、ギュッと目を閉じた。言葉を出せない唇を固く結ぶ。
カトルの丸くなった背中を真っ直ぐに直すため、なだめるようにトロワが撫でた。
今度はぴんとカトルの背中が張る。
「んっ!?」
上向いたカトルの頬にトロワの唇が触れた。
「トロワ!?」
驚いたカトルは頬を紅潮させて眼を見開いた。今の接触は、偶然、もしくは気のせいだと思おうとしているふしがある。
目尻にキスをして、反射的に閉じたカトルの瞼にトロワはそっと口吻ける。
「カトル」
囁くように名前を呼んで、濃いピンクに染まる柔らかな唇に、トロワは優しくキスをした。
「ンっ……トロワ!? どう、したの? 寂しいの?」
「いや、なぜそう思う」
「だって……おかしいよ」
「変わりないつもりだが」
晩生のカトルもさすがに、いつもと違う触れ合いかたに気がついている。トロワからキスをすることは珍しいことで、唇になんて触れられたことはない。
カトルにとって、初めての優しいキスだった。
それを。家族みたいに暮らしている、トロワと交わしてしまうなんて……。
困惑はあるが、不快感がない自分に驚いた。ただ、ただ、心臓がドキドキして、どうしていいのかわからないほど恥ずかしいのだ。
いつも自分がトロワのほっぺにキスしていたのに、今の接しかたは、なんだか恥ずかしくて、全身が火照るのがカトル本人にも、はっきりとわかった。
言葉と一緒にトロワの吐息が肌をくすぐる。そんな感覚さえカトルは気恥ずかしく思え、何が起こっているのかさえ考えられなくなってきた。
そして、混乱して、気づけばトロワに組み敷かれていた。
「ト、トロワ!? な、なんなのっ?」
そんな取り乱した声もそこそこに、カトルの柔らかな感触を楽しんでいるように、トロワは無防備な唇に何度も触れてくる。
そして、微かに開いた唇の隙間を舐めて、トロワの舌先がカトルの腔に侵入した。
「ぁ……ぅン」
カトルの歯列をトロワの舌がなぞる。
感触に驚いて、カトルの口許が緩んだすきに、トロワの舌が口腔に入り込んできた。
追いかけられるように、逃げる舌は、いとも容易く掴まってしまった。
ぬめる舌が絡み合う感覚。頭の中で響く濡れた音。直接感じる熱に、カトルは目眩がした。
いつも自分よりも冷たいトロワがこんなに熱いなんて、カトルには信じられない。でも、今、口吻けを交わしているのは、まぎれもなく自分がよく知るトロワで。
二人の唇の間から漏れるのは、淫らなほどに濡れた音と、熱い吐息に、カトルの微かなあえぎ声だ。
混ざり合った蜜が、カトルの控えめな唇から零れて濡れた線を引く。
初めてのキスの味は? と訊かれたら、甘く蕩ける蜜の味だと、頭の中で響いていたことをカトルは答えるだろう。味覚が感知したのではない。心で感じる味なのだ。胸が、気を失いそうなほど『甘やか』だと騒いでいた。
カトルはトロワの口吻けで、躰はおろか頭の中まで蕩けてしまいそうだった。意識が遠のくように陶然としてゆく。力が抜けてゆく。
しかし、うまく呼吸ができないカトルは苦しそうに、トロワの背中に腕を回して服を闇雲に引っ張った。
「ン、んンっ」
そのことに気がついたトロワは、カトルの顎に手をかけて上向かせると、下唇にキスをして、雫を舌先で掬い取るようにしてから、カトルを長い口吻けから解放した。
名残を惜しむように雫が糸を引いていた。
見ると、カトルは大きな碧い瞳は潤み、たくさんの涙を湛えている。少しのショックですぐに溢れ出してしまうことは容易に想像できた。
唇が震えている。
何も言わないのは、何も言えないからだ。
小刻みに震える手を、カトルは口許にあてた。何か伝えようとしているようにも、ただ、茫然としているようにも見える。
トロワの眼にさらされて小さくなって震えている。今にも涙を零しそうな。カトルの顔の横に両手をついたトロワは、そんな様子を真上から窺っていた。
「どうして。と、聞かないのか」
躰が震えて、喉が詰まるような感覚に、カトルは声が出せない。
カトルの姿はまるで怯えるようで。
「俺が、嫌いになったか?」
トロワにそう尋ねさせた。
眉を微かに寄せたトロワを見て、胸が痛んでカトルはふるふると首を横に振る。
その動きで、瞳に湛えられていた滴が零れた。
「きらい、に、……なったり、なんか……しない、よ。……びっくり……した、だけ」
キスは唇を合わせるだけのものだと思っていたカトルには、カルチャーショックだったのだ。トロワはどこで、こんなことを覚えてきたのだろう。知っていたのだろうか。本能の部分なのだろうか。キスはもっと可愛いモノだと思っていた。普通こうするものなのだろうか。カトルには判断がつかない。ぐちゃぐちゃになった頭の中で、ヒイロに聞いてみるべきか……悩む。
「…………ト、ろわ……」
名前を呼んで見たものの、何を聞いていいのかわからない。
「いいことがわかった」
「……なあ、に?」
カトルの震えた声が、か細く流れた。
いつもは冷静なトロワが熱を感じさせる視線で、自分をまっすぐに見つめる。
「……腔のほうが、熱い」
――――心臓がつぶされる。
口にしたトロワの緑の瞳に、カトルは圧倒されてしまった。
* * *
今日は朝からいい天気だ。洗濯日和だろう。
いつもなら忙しく働くカトルの姿がない代わりにそこに居たのは、ヒイロの創造物の世話をするトロワだった。
どうせ徹夜したのだろう。研究室から出てきたヒイロはカトルの姿を捜す。何か摂りたいのだ。たまには人間らしい要求をヒイロでも持つこともある。
「トロワ、カトルはどうした」
「寝ている」
「今頃か」
生真面目なカトルのこと、寝過ごしたことはないし、少々体調が悪くとも日課や仕事の手は抜かない。もっとも、病気もあまりしないのは、丈夫そうには見えない、儚い容姿を裏切るカトルの長所でもある。それが寝坊をしているとはどういうことであろう。
「カトルはどうかしたのか」
「考え込みすぎて熱を出したようだ。無理をしそうだから寝かせてある」
「熱?」
「ああ」
何を考え熱まで出したのだろうかと、ヒイロは一瞬考えたが、本能が放っておけと警報を発した。
「……そうか」
こいつらのことには自分からは深入りしないでおこうと、ヒイロが改めて思った瞬間だった。
キッチンへ向かおうとしたヒイロに気がついたトロワが声をかけた。調度、カトルにも何か軽い食事を用意しようと思っていたらしいのだ。
『俺はついでか……』
心の中で突っ込まないでもなかったが、深く考えないことにして、定位置のソファーに腰かけた。
外はよく晴れている。
カトルの具合はいつ良くなるのだろうか。
ヒイロは刻み込まれた眉間の皺をさらに深くして、眩しく明るい空を見た。
間もなくして戻ってきたトロワは、ヒイロの前のテーブルにコーヒーと軽食を置くと、カトルの部屋へ向かって行った。
どんな会話が交わされているのだろう。それは誰も知らぬこと。想像もつかない。
ヒイロはもちろん何も考えないで、淹れたてのコーヒーに口をつけた。
なぜか、いつもよりほろ苦い味がした。
*FIN*
2004年1月11日に発行したものを、
少し加筆訂正しました。