『Boys,be Ambitious !』 ザ、ザ、ザ、ザ。
ザッ、ザグッ、ザ、ザグ。
トロワとカトルは真正面に広がる海を見ながら、足下から起こる音に耳を傾けていた。
それは砂を踏みしめる音。乾いたような湿ったような、潮の風にさらされている砂が立てるものだった。
囁くように鳴り続けているBGMは波の音で、当然今もそれは消えたわけではないが、子供たちが自分が関わることによって生まれたものに気を奪われている間、風の吹く音と同じように引き立て役に徹していた。
砂が灼けている。
空気が重さを増していると、呼吸する度に体が訴えてくる。目の前の映像は立ちのぼる熱気で、もやもやと揺らいでいた。
夏の陽射しは、容赦なく触れたものたちを熱で浸食していく。二人が乗ってきた車のボンネットも、火にくべられた鉄板のようだった。
不眠不休でトロワの父親が運転手を務めていた間、子供たちは半分は眠っていたから元気なものだ。保護者を置き去りにして、一足先に海岸にやって来た。
目の前に広がる海や空や砂浜に、誰かが作ったようなはっきりとした形をした入道雲が加われば、景色だけでも夏の海に来たという感じにさせられる。今のシーズンにしては人影が少ないのは、ここが穴場だからだ。
風に染みた潮の匂いを吸いこんで、
「トロワ、海だよ」
カトルは手をつないでいるトロワを見上げながら言った。
トロワは水平線に向けていた視線を、自分より少し背の低いカトルに向けると頷く。
「トロワ、見て」
また呼びかけて、今度は目線の高さまで腕を上げた。
「真っ白だな」
「違うよ。肌自体じゃなくてー」
ぶるぶると首を横に振られたトロワは、関係のないことを考える。
(カトルを見てるとハラが減る気がする)
白が食欲をそそる色だなんて聞いたことはないが、トロワはカトルを見ていると、食欲のようなものを刺激されるらしい。あやふやな表現になるとおり“ような”であって、そのものではない。
「よく見てよ。腕が汗をかいてるんだ。こんなの初めて見た」
確かに、細微な水滴に肌が薄く包まれて、腕全体がしっとりと潤んでいた。まるで霧の中を来たようだった。
ノースリーブでお日様に当たることなんてほとんどないカトルは、『見えない汗』がメインの場所が、目に見えて水気で滲んでいる状態を目の当たりにするのは――意識したことがなかったせいもあるだろうが――初めてだった。
「理科の実験みたいだな」
トロワはカトルにうながされ、そのほっそりとした腕を手にとって感想を口にする。
「おもしろいね。海に来て、よかったねトロワ」
それは海じゃなくてもいい気がするトロワだが、カトルの満面の笑みに、同意を示す微かな笑みをもらした。
下ろされた腕を、なにげに目線で追ったその時に、カトルのビーチサンダルを履いた足が、チラリと視界の隅に入った。
カトルの足先が砂に埋まりかけていることに、トロワは少し驚いた。
まだ、砂浜に出て数歩。砂まみれになるのは仕方ないとしても、埋もれているのはおかしい。
「カトル、変な歩き方をしただろ」
「どうして?」
目の前で大きく首をひねって、いぶかしがっている、甘いお菓子のような風貌をした子は、他意はなく時々突飛な行動をする。それを重々承知しているトロワは、手を引いて半歩先を行く自分の見ていないところで、カトルが何かやっていたと想像した。
見ると、砂浜に残るカトルの足跡は、“点点”ではなく“線線”だった。
怪しんで思い返せば、カトルの足音はトロワのようにサッサと表面を進んでいるものではなかった。もっとこう、ギュッギュッと砂を押すような……。
トロワの手をしっかり握りながら、海も見ないで足下をじっと見つめ、感触を確かめ音を聞きながら、歩くカトルの姿が頭の中に浮かぶ。興味深そうに、ワクワクとした面持ちで見開いた大きな瞳や、口角を上げつつ結んだ口許の描くラインまで、トロワにはありありと思い描くことができるのだ。きっとカトルのことだ、瞬きも忘れていたのだろう。
気が逸れるとカトルの歩調は緩やかになるのだが、
(そう言えば手のひらの感触が重たかったな……)
思い返しながら、トロワはカトルのいやに馴染む手を、クイクイと軽く握り締める。
手を握り返してくるカトルの瞳を見つめているトロワの口許にも、うっすらと笑みが浮かぶ。
“可愛い”という言葉は恥ずかしい。トロワはそう思っていた。男の自分が口にするのは勿論だが、思うことすら恥ずかしい気がしていた。そんなトロワの中の治外法権。感覚を抑制する気持ちもなくなるほど、カトルはトロワから見ても“可愛い”存在だった。
まだトロワは小学生だが、幼いながらも同じ歳の幼なじみであるカトルに恋をしている。彼自身が恋という認識をしているのかわからないが、ただ好きだということは誤魔化しようがないほど、トロワの中でもはっきりとしていた。「大きくなっても、ずっと一緒にいたい」というのは、トロワのささやかでいて強い願い。長期の休みをいつも一緒に過ごすカトルのことが、どうしようもなく好きだった。
機動力のない子供だと、遠くに住んでいるカトルと会うには、親の援護がなければどうしようもなくて、好きなときに、いつでも一緒にいられるわけじゃない。だから、『大きくなっても』と先に述べたが、微妙に言い直せば、「自由に行動ができるほど『大きくなったら』ずっと一緒にいたい」、これがトロワの真摯な想いだった。
感情の起伏が小さくて表情に乏しいという『子供らしくない子供』の具体例のようなトロワが、珍しく可愛くも見えるとすれば、それはカトルといるときではないだろうか。それでも浮かべている笑みの種類自体は、子供じみたものであると言いがたいところが、トロワらしい点であったが。トロワが失敗だと思うことの大方がカトル絡みだと、本人が気がついたのは、この恋が成就した後のことである。
「おもしろい音がしたか?」
「うん! 感触もおもしろかった!」
これはトロワの予想は正解だったということだろう。
本当はなにが落ちているかわからないからと、注意するつもりだったトロワだが、無邪気な返事に用意していた口上を飲み込んでしまった。代わりにトロワが口にしたのは、
「……熱いだろ」
「ヤケドはしてないみたいだけどね」
足についた砂を払うように、カトルは地面から浮かせた片足を、足首からぷらぷらさせながら「たっはっは」と笑う。
やってみたものの熱かったから、図星をさされて笑っているのか、この熱さで火傷していないことを誇らしく思って笑っているのか、わからない。
よくわからないまま、トロワはカトルのほっぺを、ふにっとつまんでいた。
どうしてそんなことをしたのか? だからそれは、わからない。わからないけれど、そうしたくなったから。
同じ理由でカトルの髪を、くしゃくしゃに掻き回してしまうことがある。やわらかでへにゃへにゃしたカトルの髪の毛は、唐突に侵攻してきた勢力に、打撃を加えるどころか、気持ち良さを与えてしまう代物だった。
光る糸のような、淡い色をしたカトルのそれは、トロワの同級生の飼い犬である――品評会で優勝したという――ポメラニアンのものよりも、ずっと触り心地がいい。だから、ペット自慢をされる度に、トロワの胸の中では反論材料として、『カトルの気持ちのいい髪の毛』は、その都度持ち出されていた。
髪以外でも本当のところは触れるとこならどこでもよくて、――格別無防備だから今も手を出しているが――ほっぺに限らない。しっとりとした感触とか、脂肪ではなく皮膚自体の柔らかみを感じていると、触れているだけだはなく「あむっ」と、咬みつきたくなる。別に「歯形をつけてやろう」なんていう凶暴な感覚ではなくて、口でも感触を確認したくなるのだ。それは、味なのか触感なのか、自分が一体なにを確かめようとしているのか、実際にやってみなければわからないと、悠長にもトロワ自身が思っている。
せめて口で触れたなら、何か見えてくるだろうか。目下のところ、無感動にみえる無表情の下で、わからないことだらけのトロワである。
『咬みついてもいいか?』
言えるわけがない。でもいつか、言ってしまうかもしれない……。
そんなことを考えていたと、おくびにも出さないで、
「まずカトルは何がしたい?」
片手をつなぎ、余った手でカトルの頬をいたずらしている姿勢のまま、トロワは普段と変わりなく問いかける。
「えっ、ぼく?」
目の動きや表情から、トロワの行動にカトルが困っているとわかる。それなのにカトルは無礼きわまりない手を押し退けることもせず、やめてとも言わない。トロワがカトルに振り回されているように見えて、カトルもトロワに弱かったのだ。
「海に来たらしたいことを、いろいろ言ってただろ。たくさん泳ぎたいとか、釣りをしたいとか、貝殻を集めたいとか」
「ボートにも乗る。ふくらませてもらうんだ」
まるで浮き輪を膨らませてもらうようにカトルは言う。当然、その役を割り振られているのはトロワの父親だった。カトルはどんな大きなビニールボートでも『ヒイロなら、ぷーって、すぐに大きくできるよ』と信じている。
ちなみに『ヒイロ』とはトロワの父親の名前。ぷーっと空気を入れるのは、我が身一つで道具もなし。カトルの頭の中ではそういうことになっていた。
「暑そうだなカトル」
言いながら、カトルの額にうっすらと浮かんだ汗を、トロワの手のひらが優しく拭う。日光の下で見る、透明感のある真っ白な肌は、本当に透けるようだった。
トロワはカトルの湿り気を帯びた頬を二度三度、鼻に近い位置から耳の方に、添えた親指で撫でた。
「……だいじょうぶ」
まだ汗をかいていないトロワの顔を見ながらカトルは言った。
サラサラとしたトロワの髪は、風に少し揺れている。長い前髪で目許を隠し気味のトロワだけど、とても綺麗な目をしている。瞳はオリーブグリーンの素敵な色をしていて、そこもカトルが両手両足をフルに使っても数えきれなかった『トロワの大好きなところ』のひとつだった。
炎天下、太陽の照りつける浜辺。
「トロワは暑そうに見えないね」
「いいや、暑いのは得意じゃない」
主張に反して、トロワは場所を無視して涼やかだった。
二人の手のひらは重ねた熱気で汗ばんでいた。多く熱を発散しているのは、そもそも体温が高めのカトルのほうだ。夏場にカイロを握っているのと大差ないトロワは、カトルのためなら火鉢に密着する努力だってしそう。
そんな彼なのに、相手を戸惑わせてしまうから困ったものだ。
つねられているカトルは、怒るではないが、
(…………こんなにして……、のびちゃったら、トロワのせいなんだから)
自分が何か変なことになってしまったら、トロワはちゃんと責任をとってくれるのだろうかと、カトルはそのことについてドキドキとし始めていた。
だって、もしもトロワがカトルなんか知らないと、そっぽを向いてしまったら、どんなに胸が痛くなるのか想像するだけでもう、鼻の奥がじんわりとするくらいだから。カトルは嫌なことを、考えてみることすら出来ないのだ。したがってドキドキとしているしか、カトルには術はなかった。
「カトルおまえ、泣いてるみたいだぞ」
「そんなんじゃないよ。汗が目に入るのか、目が汗をかいてるのか、そのどちらかだよ」
トロワがカトルの言葉に、長いまつ毛で縁取られた目許を見るが、目尻が濡れているのも汗だと言われれば、そんな気もしないでもない。
周囲から見れば二人の様子は、仲良しのふざけっこ。積極的にちょっかいをかけているトロワが、そういうことをするように見えない物静かな少年だから、少し変な構図だった。
進退なくこう着状態のまま、どうするのかと思っていたら、父親が二人を呼びに来てお開きとなった。
帽子も被らずに行ったことを、とがめられるかと思ったが、車中に戻るなり掴んで見たカトルの腕が、まだ赤くなっていなかったおかげか、トロワの父はため息だけで赦してくれた。
だけど、やっぱり駄目なことをしたとトロワを後悔させたのは、カトルの顔が頬を中心に熱を持って、赤らんでしまっていたからだ。ほんの少し直射に当たっただけなのに。
「カトルの顔、真っ赤だ」
「暑いからね」
「そういうんじゃなくて」
耳を傾けながら、カトルは自分の頬を手のひらで包み込む。
「熱いから、赤いんだよ」
手で感じる自分の表面温度に、我ながらびっくりしている。そのくせ、「心配ないよ」とトロワに向けて、にこにこと笑っていた。
「すごいね、ぼく」
受けた熱をはらんだままの自分の肌に、カトルは面白そうに言った。
「そうやって笑っているカトルは確かに凄いな」
淡泊なトロワから見ても、カトルはあっけらかんとしていた。
くだらないことには、こだわらない。というのは両者同じだろうに、他人からの評価だと、淡泊なトロワは『冷めている』、けろりとしているカトルは『おおらか』となるから面白いものだ。二つの分かれ目はなんだろう。
熱を計るようにトロワがカトルの頬に触れる。
「ね?」
熱いでしょ。
「見たままの温度って感じだな」
カトルの小さな顔を包み込むように、トロワが両方の手のひらを押し当てる。カトルはしばたたき、少し目を閉じた。
(まつ毛が長いな)
今さらながらトロワは好意込みの感想を抱く。そんな心の声が聞こえるはずもないカトルは、瞳を開こうか閉じようか迷いながら、まつ毛を伏せたまま。震えているような瞬きだけを、ゆるゆるとくり返していた。
うつむき加減のカトルは、少し手を振って、微かに起こる風を利用して熱を冷まそうとする。片手では足りなくて左右から風を送った。
その間も、カトルの顔に手のひらを付けて離して。トロワは同じ動作をくり返している。
今度は弄っているのではなく、カトルより冷たい自分の手が、その熱を吸えないものかと考えたのだ。
「汗をかいてるから、ぼくのほっぺたとトロワの手のひらが吸いついてしまうね。……離れるときに音がしてる。聞こえるかいトロワ? この音が大きくなったら、ベリベリベリって感じになりそうだよね」
「離れたくないんだろう。そんな音だ」
トロワに聞こえていたのは、ぴったりとくっついているもの同士が無理に引きはがされる、小さな悲鳴だった。
海岸に持っていく荷物を淡々とまとめていた父親も、子供たちの会話を実は聞いていた。
「茹だっているようなものだ。熱がひけば戻るだろう」
口をはさみながら、タオルをトロワに向かって軽く放る。リレーの要領で、それをまずカトルに手渡していると、トロワにもう一枚タオルが飛んできた。トロワはカトルのほうを向いたままだったが、横っ面で受け止める寸前、それを片手でキャッチした。
前振りのない父親にトロワも無言のままなのは、この父子はいつもこんな調子だからだ。よく言えば息があっているのである。
トロワは受け取ったタオルを首に引っかけ、端で額に滲んでいた汗を拭いながら、目礼するように父を見た。
目が合った父親は何も言わずにトロワに目配せをして、助手席のほうへ顎をしゃくる。
誘導されるままトロワがそこを覗き込むと、そこにはお助けアイテムのようにうちわがあった。
一段落ついて、服装を改めがてらトロワとカトルの両者は、日焼け止めを全身に塗らされた。カトルは特に念入りに、父親の手ずから塗り込められていた。
再び砂浜へ繰り出す出で立ちはというと、トロワのほうは上着を引っかけ下は水着だったが、カトルはいつもよりズボンの丈が短めなことと、足元がビートサンダルだということ以外は、あまり普段と大差がない服装だった。
泳ぎたいという希望は、どこへ行ってしまったのだろうか。
整備された道が、こんなに憎らしく感じるなんて。
アスファルトは砂以上に熱く焼けていた。
足早にそこを歩くトロワも、流石にいつも通りの無表情とは言い難く、ぶ然とした面持ちだった。
サンダルの底も徐々に熱さを増すようだ。無意識で首を前に垂れてしまうのだろう、太陽から目を逸らすように、目線が下がっていく。
一筋伝った汗の感覚に少し眉をしかめて、トロワは手の甲で額の汗をぐいっと拭うと、前方を見据えるように面を上げた。
トロワは帽子を被ってこなかったのは失敗だったと思った。目的地を車で通過したときは、それほど海岸から離れているとは思わなかった。やはり車と子供の足ではスピードが違いすぎる。なによりこの暑さだ。堪えて当然だろう。
首にかけているタオルの端で汗を拭き、不快感をやり過ごす。これを手渡してくれたカトルに感謝しなくては。
片手には小振りな財布が握られていた。トロワは海へ行く途中、車中から見た、小さなスーパーマーケット(と云うものの、売店という規模だったが)に向かっていた。
求めるのはウェットティッシュに(明らかにこの場では必用のない)電球一個、なんのつもりかアーモンドフィッシュという(アーモンド、小魚、しょうゆ、さとう、みりん、ごま、というシンプルなもので出来た)お菓子。トロワは罰ゲームの最中にあった。
釣りを始めたときにカトルが競争をしようと言い出して、『制限時間内で二番目に多く魚を釣り上げた人間が買い物に行く』という変則的なルールのもと、父親を含めた三人で競いあった結果がこれだ。
二番目というのが変わっているが、これはカトルが言いだしたことではなく、トロワ自身が提案したものだった。
競争が決まったところで直ぐにこの罰を設けたのは、子供が相手だろうと、手を抜くような甘いことはしない父親だった。普通なら最下位の者が罰を受けるのが常のルールだが、あのメンバーでは過去のことからいって、カトルがどんじりになることは目に見えていた。だから、この方が「予想ができなくて、面白くなるはずだ」とトロワは主張した。
幼なじみを本能的に守ろうとするトロワは、炎天下のうえ、見知らぬ土地での買い物なんてカトルにさせるのは可哀想だと、
(父さんには悪いけど、絶対に負けない)
と、心の中で闘志を燃やした。
トロワはカトルが一番下だと予想して、後は自分が父親を負かせばいいと考えたのだ。
買い物自体は嫌ではないし、自分が行くほうがましだとトロワは思うのであるが、そうなってしまうとカトルと過ごす時間が減ってしまう。折角の海なのだ。常のことではないからこそ、二人でいたいと思っていたから、意地でも一番になる必要があった。
たとえ表情は普段と変わりないとしても、胸中においてさえ、物事に必死になるトロワなんて、ツチノコと張るくらい見られたものではない。その心意気は形になって現れ、見事父親を打ち負かした。
だが、トロワはこうして照りつける太陽の下、お買い物に向かっている。
全てはカトルに及ばなかったせいだ。
入れ食い現象を引き起こした勝負強いカトルが、他を引き離して圧勝したのであった。
① カトルに罰ゲームはさせない。
② 父親に勝つ。
確かにトロワは二つとも成就させた。させたはずなのだが……。世の中にはとんだ落とし穴があるものだ。
それでもトロワは「カトルじゃなくて、よかった」などと、本心から思っていた。
惚れた弱みという言葉に、対象年齢はあるのだろうか?
成長したトロワに、初めてカトルに惑溺寸前の愛しさをおぼえたのはいくつの時だったのか尋ねてみたいものだ。
トロワが砂浜に帰りついたのは、居残り組の予想を超えた時間が経過してからだった。
再び海を見たトロワは大きく息をついた。記憶している方向を見渡し、人々の姿の間に目印のパラソルを探しながら歩いていく。たどり着いた拠点には広げたシートに寝そべって、その影で昼寝をしている父の姿だけがあった。
トロワは息をつきながら、シートの上に荷物を下ろした。
「ただいま」
「ああ。思ったより、堪えたようだな」
のそっと身を起こすと、トロワの姿を見てそう言った。端正な顔立ちの父親は、息子に似て表情が豊かな人ではなかったから、今も余りたいしたことのなさそうな顔をしていた。
だが、側に置いていたクーラーボックスから冷えた飲み物を取り出すと、トロワに手渡した。労をねぎらうというより、善戦を評価している同士のような態度だった。
「カトルは少し向こうにいるぞ」
受け取りながらも気が逸れている感じのトロワへ、それを察した父親は言う。だてに二人を見ているわけではないということか。
「ここで待っている間ずっと、おまえの帰りが遅いとうるさかったから、遊んでこいと追い出した。じっとしていると、延々とおまえがいつ帰るのか、質問され通しだ。誰が罰を受けているのかわからない」
何かしているほうが、ただ待っているより時間が経つのが早いと父親は考えたのだろう。トロワはその配慮に感謝した。
待っていたカトルはトロワが心配でそわそわしていて、父親はその子の質問責めにあっていたようだ。居残り組も安穏としていたわけではなかったということか。
父親が眉間のしわを深くするほど、カトルが気にしていたと聞いて、どれほどトロワが嬉しく思ったか。
好きな人への愛しさが増す瞬間というのは、こんなにも些細な事実を知ったとき。そのときの姿を思い描いたとき。
抱きしめてしまいたい。という衝動は、大人だけのものだはない。
すぐさま動き出そうとしたトロワは、「水分は摂っておけ」と父に引き止められ、申し訳程度の休憩をとることを余儀なくされた。
買い物袋の中の確認すらしないところを見ると、やはりどうしても必要なものなどなかったようだ。邪魔だから袋ごとかたしてしまおうと、トロワが腰を浮かしかけたら、先に父親がそこに手をかけた。
ウェットティッシュを使うのか。なんて、なにげに見ていたら。引き続いて別の物を取り出した。
「今食べたかったのか……」
トロワは意外に思い、菓子の袋を開ける父を見て言うのに、
「そのための買い物だろ」
当たり前、といった風情で、トロワの呟きは返された。
スポーツドリンクのおつまみに、黙々と菓子を頬ばり出した父に、
「カトルも食べたがってたぞ」
トロワはくれぐれも完食しないように警告する。
父親が無言でおまえもどうだと差し出すのへ、トロワは軽く首を横に振って辞退した。
しばらくして、強制的な休憩から解放された瞬間、トロワは立ち上がっていた。
年齢に不釣り合いに落ち着きすぎの我が子が、足早に遠ざかる後ろ姿を、親父殿はただ黙然と見つめていた。
方々を捜し求め、その姿を見つけたのは、波打ち際から随分と離れた、人のあまり来ないところだった。
つばの広い帽子を被り、しゃがみ込んでいるカトルは後ろから見ると、小っちゃくて可愛い白一色の塊だった。
一体何をしているのだろうか。
「カトル」
トロワはすぐに声をかけた。
その声にぴくんと反応してカトルが振り返る。
「トロワぁーー!」
小さなスコップを握ったカトルは、名前を呼びながらトロワに駆け寄ってきた。
砂に足を取られ、見ているこちらが手を伸ばしてしまうほど走りにくそうだったが、意に介しないのか、カトルは嬉しそうだった。こうなると、状況と表情のギャップが微笑ましいを通り越し、かわいいやつだなぁ……と、思わずにいられない。
「トロワ、遅かったんだね。大丈夫だった? 迷子になってしまったのかと思って、とても心配していたんだよ」
「思っていたよりも遠かっただけで、カトルが心配しているようなことはなかった」
迷子という言葉に苦笑しそうになる。
「疲れたでしょ」
「多少な。そうじゃなければ罰ゲームの意味がないだろ」
目許だけを緩め、軽くカトルに笑いかけるトロワは、この頃から堪え性のいしずえが出来ていたようだ。もっとも、魂が半分身体から出ているような状況でも、あたかもそれが特別なことではないように言ってしまう性格だったから、今も彼の多少が、どれほどの大きさを持つのか、わかったものではない。
すぐに手をつなぐようにして指先を絡めてきながら、休憩はしたのかと聞くカトルにトロワが答えていると、その後ろから声がした。
「で、カトル、そいつがトロワ?」
何事かと声のしたほうをトロワが見ると、
「お勤め、ご苦労さん」
人懐っこい笑みを浮かべた、同じ年頃の男の子が、片手を上げていた。水着いっちょでバケツを引っ提げた、見るからに元気そうな奴だ。よく見ると髪は物凄く長くて、それを三つ編みにして一つに纏めていた。
誰だコイツは? と、トロワが思うのは当然のことで、無言のままそいつを見ていた。
「友だちになったんだよ。海の家の子なんだって」
「海の家はオレのじいちゃんがやってんだけどな。だから正確に言うと海の家の孫だな」
「とても親切にしてもらたんだよ」
カトルはそう言ってそいつを『デュオ』だとトロワに紹介した。
たった今知り合ったばかりの人間を嬉しそうに引き合わせるカトルを前に、トロワの気分が良いわけがない。人と馴染みにくいトロワからすれば、そんなに簡単に『友だち』になんてなれるのかと思う。
態度が一変。
「そうか。じゃあ、俺は戻る」
「ト、トロワっ。みんなで一緒にあそばないの?」
「疲れてるんだ」
残業後帰宅した、たちの悪い亭主のようにトロワは言う。気だるげな態度で、ネクタイを緩めている幻影まで見えるようだった。
アスファルトの熱で溶けかかっていたときに、カトルは自分以外の知らない奴と、楽しく遊んでいたのかと思うと、トロワはムカムカとした。どんなことを考えてトロワが歩いていたのか。それなのに……。何より自分のことを忘れていたに違いないということが、トロワの不愉快に拍車をかけていた。
人の行動に干渉し、不平を唱えるなど何様だ? クールぶればそのくらいの強がりは涼しい顔で言える。それが正論かもしれないが,人情の機微は一筋縄ではいかないものだろう。
「じゃあ、トロワは見ているだけでもいいから、ここにいてよ」
お願いしながらカトルはトロワの腕を掴む。
「…………」
無言を決め込むトロワは、怒りという感情に隠れ、カトルの次の言葉を期待している自分がいることに気がついていなかった。
引き止める言葉は、必要だという告白のように響き、言い募られると、強く好きだと言われているような気持ちになった。こんな状況でも、カトルの行動の端々から垣間見える好意に、トロワは安心していた。
カトルが一体どのくらい自分を好きなのか、もっと言わせたいという、そんな無意識下の感覚が、トロワに言葉を飲み込ませていたのだ。その点でカトルは相手を満足させる素直さを持って、時に愛情ゆえにいじめられてしまうということになっていたのだろう。
トロワがじっと、自分の砂まみれの手を見ていることに気がついて、カトルは慌ててその手を離した。
「ごめんっ! トロワも汚れちゃった」
トロワの腕に残る砂粒を払うのが逆効果。汗と混ざって、泥で引いた線になってしまった。ますますカトルが焦りで舞い上がっていく。
これ以上トロワに嫌われないように、カトルはぐいぐいと洋服で手のひらを拭う。滲んだ涙を拳で拭っているような気持ちになった。
汚れた手をトロワが嫌がるのではなくて、自分の手そのものを、煩わしく思っているのではないのかと思うと、カトルは胸が痛かった。それでも、今にも立ち去りそうなトロワに、カトルは早口で告げてくる。
「トロワに見せたくてがんばってたんだけど、間に合わなくって……。本当はトロワに完成品を見てもらいたかったんだ。もう少しでできあがるから、トロワは座って待っててくれるだけでいいんだ」
「暑いだろ」
つれなく一蹴され、カトルがぐっと口を噤んだ。
「ぅん。それじゃあ、戻ってて。……できたら呼びに行くから、そのときは来てくれるよね?」
不安気にカトルがトロワの顔色をうかがっている。返事を待って小首を傾げたカトルが、無理に笑っているとトロワにはわかる。今にも泣き出しそうな顔をするカトルにますますトロワは苛々とした。
悪いのはカトルのはずなのに、どうして加害者意識をもたなくてはいけないのか。自分が不機嫌な理由もわからないで、そんな顔をするカトルはズルイとトロワは思う。
トロワはカトルの大きな瞳が、浮かんでくる水でゆらゆらとするのを見るのが、とても苦手だった。目線を下に逸らしても、小さく結ばれた唇が小刻みに震えていて、見ていられなくなるのだ。
吐き出したため息は、怒っているのにカトルを放っておけない自分に対してだ。
「……それで何をしてたんだ?」
結局トロワは折れてしまった。
効果はてきめんで、トロワの言葉にカトルの表情が見る見る晴れてゆく。
心底嬉しそうな顔をされてしまうと、トロワは「やっぱりカトルが好きだな……」と自覚せざるを得ない。
怒りと愛情は、打ち消し合うこともなく共存する。シーソーのように、あちらが傾けばこちらがどうのという具合に、単純には作用していないようだ。
カトルはというと、トロワのいこじな態度を、意地悪な行為とは受け止めていなかった。ヘソを曲げていると、そのくらいはわかっているのだろうか。
どちらにせよ、カトルからするとそれは些細なこと。トロワが自分を好きでいてくれるのなら、嬉しい気持ちが全てに勝ってしまうから、何をされても何があっても最後にはトロワが大好きだという事実が残る。
「あのねトロワ、ここでお城を作ってるんだ」
いつもの調子でカトルは応え。
「あっ、オレがスコップとか道具一切合切の提供者ね。それで、結局手を貸してくれるわけ? 話し合いは終わったのかよ……」
傍観者になっていたデュオが、ここぞとばかりに口を挟んだ。
バケツを持ってカトルが海水を汲みに行くと、ここに残るのは、当たり前だが、トロワとデュオの二人だけになってしまった。
カトルをデュオと二人きりにさせたくないトロワと、そんな見え見えの思惑に乗りたくないデュオが、無言で擦り付け合いをしていたから、カトルがさっさと行ってしまったのだ。しかし、この組み合わせもいかがなものか。
しゃがんで黙々と砂地を固めているトロワに対して、デュオは彼からすると、どうでもいいような話ばかりをしていた。よく口の回る奴だと思うだけで、トロワは取り合いもしない。
それには陽気な少年も思うところがあったのか。デュオは手にしていたじょうろ型の物を使って、完全に一人の世界に閉じこもっているトロワの手元に、上方からザザザーと砂を降らせた。
「なんだよ。オレがおまえがいない間に、カトルのことナンパしたから怒ってんのか? あんま苛めてやるなよ~」
「なんのことだ」
“ナンパ”という、それこそ軟派な響きが非常に引っかかるが、適当に返事をしてトロワはだんまりを決め込む。
「本当は手伝ってくれなくてもよかったんだけどな。――おっと、誤解すんなよ。邪険にしてんじゃなくて、カトルの希望を代弁してやってるだけなんだからさ」
「カトルがそんなことを思うわけがないだろ」
付き合いの長さと深さを武器に、トロワは真っ向から否定した。
「言っとくけどオレ、別におまえらの間に割って入る気なんかないんだからな。オレはカトルと仲良くなりたいだけなんだよ。……だからダンナぁ、そんぐらいで睨むなって」
苦笑しながらデュオは頭を掻く。
「おまえが帰ってくる前に、“オシロ”を作っときたかったんだって」
自分を見るトロワの鋭い目つきに、困惑が混ざったとデュオは読んだようで、少し肩の力を抜いて話し出した。
「あいつ、ここで何してたと思う? 手で砂を掘ってたんだよ。可愛い子が一人で遊んでんだから、オレは即声を掛けようかと思ったんだけど、没頭してて話しかけられなかったんだ。だけど、素手の砂いじりじゃ、らちがあかない感じでさぁ。見ちゃいられないねぇ~ってんで、それでオレはじいちゃんのところに戻って、スコップとか持って声を掛けたってわけ。まぁ、初めは穴でも掘ってるもんだとばかり思ってたんだけどな。穴掘りに夢中のカワイ子ちゃんってのは、かなりミステリアスだよなぁ」
「異様っていうんだ」
「しゃべんないくせに一言がうるせぇ奴だなー」
お使いに行っているトロワが帰ってきたら、びっくりさせようと思っていた。トロワが頑張っているあいだ、カトルは自分もトロワのために何かしたかったのだ。白い服と白い手を汚して、カトルはトロワに喜んでもらいたくて、砂でお城を作ろうとしていた。
「だからオレもほとんど何もさせてもらってないんだよ。適当に砂山こしらえて棒でも刺しときゃいいのにな。カトルの『トロワのために』なんて作品なら、おまえそれで満足だろ」
自分の発想が気に入ったデュオは声を立てて笑った。
だけどトロワは笑えない。デュオの言うとおり、満足だろうから。
初対面の少年の言葉をどこまで信じていいのか、疑う気持ちもあるのだが、真意もさだかではないこの話を聞いただけで、嬉しいと感じる単純な感情をトロワは抑えられない。
「かわいいねぇ、まったく。一生懸命で気持ちイイよカトルは。容姿と同じだけ中身も可愛いんだな。オレもカトルみたいな幼なじみが欲しぃーーっ。女の子より可愛いしなぁ」
「今みたいなことを言っていると、あいつは不機嫌になるぞ」
ご機嫌斜めなのはおまえだろ。と、すかさずデュオは頭の中でツッコミを入れ、あの穏やかそうなカトルが膨れるわけを考えた。
「? 『女の子より』ってやつ? ……そうだな、こりゃあ失礼か。『可愛い女の子よか、ずっとカワイイ!』くらい言わないとなぁ~」
「……笑ってろ」
頭を掻いて、なぜか照れ臭そうに、豪快に笑いだすデュオに、トロワは他の言葉を見つけられなかった。
「ところでおまえ、学校ではどっちなんだ?」
「話が見えない」
「だからさぁ、すごくとっつきにくいんだけど、これが地なわけ? カトルとは一応会話が成立してるけどオレとは全然じゃねぇか。カトルが『トロワは無口だけど、とっても優しいんだよぉ』なんて、めちゃめちゃカワイイ顔してカワイイ声で説明してくれてたけど、おまえ、無口以前の問題だろ。見かけがよくてもこれじゃあなぁ、女の子にも怖がられるだろ。これでモテたら反則だからな。今度は男に煙たがられるぞ」
面と向かって何恐れる様子なくデュオは言う。そのとっつき悪さゆえ、正面からトロワをこき下ろす勇気のある同年代の奴はいなかったのだが、デュオは他の人間とは違うらしい、よく言えば勇敢。
だけど他者からの映りに重きをおかないトロワは右から左。そんなわけだから、デュオの長台詞に対するトロワの心の中での反応はというと、『そうか、カトルは俺のことをそんなふうに思ってくれていたのか……』本題も無視してこの程度。デュオには気の毒な話である。
「おまえら二人、仲良いみたいだけど、カトルは普通だもんなぁ。疲れないのかねぇ、こんなだんまり相手にしてて。暑っちぃーー。ヤベッ、背中にむらができちまう」
一方的にしゃべりながら背中に垂らしていた三つ編みを体の前に移動させる。デュオのマイペースな状態は、ほとんど大きな声の独り言だった。
会話が切れることを狙ったのか、トロワは別の場所に移動して、足下の白い砂を掻き混ぜていた。首謀者であるカトルがいなければ、特にすることがないというのが実状なのである。
「おぉーーーーっ!」
デュオが今度は妙な奇声を発したが、トロワに取り合う気はなかったから、下を向いたままでいたら……、ドシッと背中から熱気を伴った衝撃が走った。
反射神経だけで、突っ伏す寸前で砂地に両手をつく。何だ? と驚くものの、背中の感触で直ぐにトロワには答えがわかってしまった。
「ただいまぁー」
明るい声。トロワの好きなカトルの声だ。
「カトル……」
「トロワの背中、スキだらけだったー」
ぶつかってきたカトルは、そのままトロワにおぶさるように、ぴとっとくっついている。トロワは首に回されたカトルの両腕に、手を添えることすらできない。白くてお餅のようにやわらかそうなそれを、視界の隅に留めるだけだ。
両方の肘と膝まで、べったりと地についたトロワを見てデュオは「顔から突っ込まなかっただけでも上等じゃねぇか」と言って、盛大に笑っていた。
腕立て伏せの要領でなんとか上体を起こしたが、カトルがへばり付いたまま離れないから、体勢をちゃんと立て直せなくて、トロワは膝をついたまま。
汗をかいているから、砂が肌にべったりと張りついた。
――――暑い。
密着した背中から汗が噴き出すのがわかる。汗かきではないトロワでもこうなのだから、カトルに至っては……。
気温も体温と互角だろうが、そんな中、湯たんぽを背負うのは、それこそ罰ゲームみたいなものではないだろうか。
だけど、“暑い”のは厭だが“熱い”のはちっとも厭じゃないと、この拍子に感じたトロワには、同じアツイでも、不快なものとそうでないものがあるらしい。この状態は肉体的に堪えても、精神的にはダメージにならないということのようだ。感覚さえも感情で左右されるというのは、基本中の基本。
本当なら邪魔なものも当たるはずなのに、首元に感じるのはカトルの綿毛のような、ふんわりとした髪の毛の感触だけであったから、トロワはもしやと思った。
確かめるため首を後ろにねじる。
「カトルおまえ、帽子はどうした? 失くしたのか」
「なくしてないよ」
プラチナゴールドのカトルの髪が、惜しげもなく陽の光にさらされていた。
今までしっかりと帽子を着用していたから、カトルがここまで綺麗な髪の色をしているとわからなかったデュオなんて、その姿にときめいてしまった。先ほどの珍妙な声を上げたのはこのためだったのだ。
あの時トロワが顔を上げていたら、イラストにしてデフォルメすれば、ハート型に描きたくなるような瞳をしたデュオを、目撃してしまっただろう。
身内に子供が他にいなかったせいもあるが、デュオのようにカトルに好意的な反応を見せる同じ世代の人間と、直接対峙したことがあまりなかったトロワである。いつも二人でいて、カトルを独占してきた。カトルを好きになる奴が他にいるのだと意識したとき、彼はどんな感情を持って、葛藤をするのだろうか。
少年が成長する過程で、これからどんどん、いろんな感情に目覚めていく。この頃の、可愛いともいえる子供のヤキモチなんて、比べ物にならないくらい、せつない想いもしていくのだろう。
「あれ? それにカトル、バケツは?」
手ぶらでトロワに乗っかっているカトルを見て、デュオも質問する。
カトルって可愛いなぁと暢気に思っているデュオの視界には、もちろんセットになっている少年の姿もあった。
(それにしても、トロワのやつ怒んないよなぁ)
と、あまりに自分に対するときとの違いに、デュオは苦笑してしまう。ここまで方針がはっきりしていると潔いというか、いっそ清々しい。嫌みのひとつも出てこなくなる。
「バケツも帽子も置いてきたんだ。帽子は怒られちゃうかもしれないけどね。……海に着く前にヒイロに見つかってしまって」
「ヒイロって誰? それもオトモダチ?」
尋ねたデュオに、妖怪子泣きじじいもどきと、それに押し潰されている被害者は、
「トロワのお父さんだよ」
「俺の親父だ」
そう同時に答えた。
「親父を呼び捨て!?」
デュオは面食らった顔をした。
「だってヒイロは“おじちゃま”って言うと嫌がるんだもの。それにぼくとヒイロは仲良しだしね」
カトルの話を聞いていても、人物相関図がよくわからないと思うデュオだった。
「砂だらけだから、転んだのかとヒイロに間違えられちゃった。あげる前のからあげみたいだって、ぼくのこと言うんだよ。だったらトロワはてんぷらの一歩手前だよねぇ。ヒイロにちゃんと見せてあげてよ」
「天ぷらだってところをか?」
「そうそう」
「嫌だってはっきり言えよ、この際……」
デュオは口の端を引きつらせている。
「デュオは全身に薄く砂がついてる……。デュオって元気だから、なんだかカラッとあがりそう」
カトルの無垢な笑顔を見ながら、三つ編みが(エビフライで当てはめるなら)しっぽみたいな気分になった人物がいた。
「それでさぁ。ヒイロが一度戻って来いって。デュオも一緒においでって。きっと、おやつだね」
「カトル、苦しいから絞めるな」
「ああ、ごめんなさい。それにしても暑いねぇ」
力一杯ため息と舌をはく。
「そりゃあ、そんなことしてればなぁ……。カトルどいてやれよ。立てないだろ、それじゃあ」
「立てるよね、トロワ」
おんぶして立ち上がる程度にカトルは思っているようだ。それならばトロワに出来ること。だけど、
「そいつがどんな力持ちくんかは知らないけど、足場が悪いって。お父さん暑さで足腰にガタがきてるから、労わってやれよ~」
そう言ってくれるデュオの言葉は、正しいのか、正しくないのか。トロワは明らかにそのまま立ち上がろうと片膝を立てた。
――――さて、トロワはカトルを背負ったまま、見事に立ち上がれたのだろうか……。
夕焼けに映えるシルエット。
三人そろって砂にまみれて、カトルのお城は完成した。
力を込めて、心を込めて、作ったカトルの『トロワのための砂のお城』は、デュオが冗談で言っていた“砂山に棒っきれ”が、巨大化したような、ダイナミックで立派な作品であった。
アシスタントをしたデュオの満足気な笑みと、それを捧げられたトロワの微笑が、完成品に対する評価だった。
◆ ◆ ◆
「トロワ」
カトルは柔らかなトーンで呼びかけながら、ベッドの端に腰かけているトロワに、背後から抱きついた。
マットレスがカトルの体重移動を受けて沈んだ。
衣の擦れ合う音が、囁くようなカトルの声の後ろでしている。
「喉が渇いたの?」
そう言って、おぶさるように体重を預けてくる。
「いいや」
子供が擦り寄るような仕種。幼いときから今も変わらない、昔からのカトルの癖だ。
年齢と共に男らしさを増して、トロワの身体が出来上がり、華奢なカトルとの体格差がひろがるにつれ、不覚をとることはなくなっていたが。よくトロワはカトルにこうして背後から押し潰された。
「どうして昔から、カトルはこうするんだ」
「んん?」
トロワからは見えないが、声の調子から、考える素振りで首を傾げているカトルの姿が想像できる。
「うぅ~ん。さぁ、どうしてだろう。……そうだなぁ」
肩に置いた手を、そろそろと下へと滑らせる。脇腹を過ぎて、カトルは両方から回した手を、トロワの腹部の前で組んだ。
トロワが撫でるように、その手を自分のそれで包み込む。
細い手首、滑らかな肌。子供のころより綺麗だと言われる比率が増したが、大人になって手足は伸びても、トロワから見た印象は変わらないカトル。
「だって……トロワの背中を見ていると、とても愛しくなるから」
頬を擦り寄せる。
「それは小さいころから同じ」
さり気なく触れる、衣服を通しての引き締まった硬い筋肉の感触に、愛しさが増して、カトルは我知らず照れたように微笑んでいた。
「本当は、感情より衝動のほうが大きくて、自分のことなのに行動に隠された心理なんて、よくわからないんだけど。……こうして抱き締めて、大好きなトロワが自分のものになればいいなぁって、こっそり思ってたのかも。それとも『ぼくのだ』って思ってたのかな」
自分の気持ちを探るように話すカトルの声は笑っている。トロワは肌に触れるカトルの呼吸から、それを直に感じていた。
相手に悟られないと思うと、その機に乗じて、身体の奥から湧き上がる強い好意をぶつけてしまう。大胆に、そして正直になれる。
背中から抱きつく。ひっつく。触れてみる。キスをして。そうしながら「大好き」だって、心の中で唱えてみる。
「同じことを思っても、正面からじゃ恥ずかしくて。照れてできないでしょ。だから……」
言葉が途切れたところで、トロワが身体の角度を変えた。
覆い被さるように、身をゆだねているカトルをゆっくりとベッドに横たえていく。トロワはカトルを閉じ込めるようにベッドに手をついた。
余る片手でカトルの顎をすくう。距離が縮まり、トロワがカトルの上に深く影を落とした。
「今ならできるんじゃないのか」
トロワは睦言のように囁く。
「……どうだろうね」
肩を竦めるように、くすりとカトルが笑った。
「だって、向き合っていたら……」
カトルが求めるように手を伸ばせば、惹き寄せられて抱き締めてしまうトロワの腕があるのだから、一方的なものにはならない。
『好きだよ』の言葉さえ、最後まで紡げない。
トロワがカトルの髪を優しく梳く。
「それでは不満か?」
「ううん」と、口にしたカトルの声も奪われて、全ては外には零れなかった。
吐息は甘露のようで、骨まで蕩けるよう。這うように添えるのは、柔らかな味覚も伴う甘い感触だ。
首に回した腕が、力を込めているのか抜いているのかわからなくなる。吐息ごと混ざり行く感覚にカトルは眩暈をおぼえた。
空気を肺に取り込む、もっと深く落ちるための空白に、うっすらとカトルの碧の瞳が開かれた。
至近から二人は見つめ合う。
熱帯夜を免れたのは何週間ぶりのことだろう。暦の上では秋になり、自然から人間への気紛れの厚意か、陽が落ちると、日中の猛暑が嘘のような涼やかな風が吹いていた。
その恩恵があるはずなのに、カトルは不意に呟く。
「あついね」
「ああ、そうだな」
静かなトロワの声は、カトルの鼓膜を振動する。
意識的にこの声音を出せるなら、なんて憎らしい男だろう。
「熱に取り込まれるのは嫌いか?」
ほら、こんな響き。
カトルは身体の中と外から、くすぐられるようだと思う。
艶やかな微笑の中、カトルは微かに頭を横に振った。
「……ううん。大好きだよ」
トロワとならば、身体が灼かれ、崩れ蕩けるような熱までも愛している。
何より慈しむように触れてくれるトロワの手を、カトルは物言うようだと思う。硬い手のひらの感触さえ優しくて、胸が震える。カトルは繋ぐように握り合った手を口許に近付けると、トロワの長い指先に唇で触れた。
「トロワも好きだよね」
翠の瞳を覗き込むカトルに応えるように、トロワも微かに目を細めた。
「カトル……」
カトルにだけ聞こえる奏べで『愛している』と、トロワの唇は動いたが、音は二人の中に消えてしまった。
瞬間ごとに新しく生まれた風がそよいでいる。過ぎていく歳月に風の色は変わったのだろうか。
だけど、夏の匂いは変わらない。どの夏も、焼けるように暑く心地好かったのは、二人で過ごしていたからだ。
また二人は、共に過ごす夏を増やしていく。
■FIN■
初出2001年8月26日
に、少しの加筆訂正をしました。