情《じょうしゅ》趣 さらさらと涼しげな音を奏でながら、流れる水。
その水には一切の濁りもなく、澄み切った清流が川底までを隠す事無くさらけ出していた。
立っているだけで、うっすらと汗が滲む。
川辺に近付くと、涼やかな空気が立ち込めて、涼をとることができた。
カトルは手招きするようにトロワを呼び寄せる。当然のように歩み寄るトロワに微笑み掛けると、カトルは川に指先を浸した。
冷たい……。
想像していた以上の心地よい冷たさ。
「トロワ……」
カトルは傍らに立つ人の名を呼んで、濡れた手を振るう。水気を飛ばすと、トロワの頬に冷たくなった、その手を当てた。
「ねえ、トロワ、……気持ちいい?」
にっこりとカトルは微笑んで、小首を傾げて訊いてくる。
「……ああ」
躯に感じた、ひやりとした感触は、あたたかく心に広がる。
トロワは肯定して、微かに口許を綻ばせた。
それを見て気分を良くしたカトルは、嬉しそうに得意気な表情を作る。
見上げてくる美しい碧の瞳。
ただ綺麗だと表現してしまうのが、惜しいと思われるほど、限りないあたたかさを秘めていた。
どこまでも人を魅了する不思議な色彩は、いつか人が還りたいと願う、抱かれたいと切望する彩(いろ)に満ちていた。
海の底、森の中、地球の大気、人の郷愁を呼び起こす御霊を宿し。その奥で、誰にも触れられることなく、ひっそりと息衝いた純潔さ。枯れ果てた地表に息を吹き込むように。全てを抱き、覆い尽くす。
その大きな瞳に映されただけで、本能的な安らぎを感じることができた。
失くしていた涙が、溢れそうになる。
昔は真っ直ぐに、見つめることもできず、目を反らし。その湖に哀しい水を湛えさせる事しかできなかった。
傷付け、何度、泪を生んだのか。それでも穢れる事もなく、カトルはひたむきなままでトロワを慕い続けていた。
寂しそうな瞳は、胸を縛られ愛しくなる。だが、木漏れ日のような曇りのない瞳は、穏やかな愛しさを覚える。
哀しみ以外の彩を、その躯に色付かせてみせる。
離れて行こうとした、柔らかな白い手を握りしめ、温もりの戻りつつある指先に、トロワは万感の思いを込めて口付けた。
カトルの肌が、仄かな桜色に染まった。
〈終り〉
〈続き〉甘々モード終了。通常モードへ……
うわぁーっ、うわぁーっ、うわぁ~っっ!?
カトルは内心で、けたたましい絶叫を放った。
何が、どうして、トロワが……、どうしたっていうんだぁっ!?
トロワは頬に添えられていたカトルの手を取ると、その指先に微かに唇で触れた。
気温は上昇をはじめていた。
顔色が変わらず、まだ汗ひとつかいていない為、気がつかなかったが、トロワは『水』が欲しいのだろうか?
今の季節にキャンプだというのに、いつもと同じタートルネックのシャツ。
詰まった首元に袖、押しこめられた裾。風の入り込む余地のない服装は、十分に中に熱を留めてしまうというのに、紺という色から日光までも吸収し、想像を絶する過酷な状況を生み出していた。
魅惑の簡易サウナスーツを彷彿とさせた。
見ているだけでも汗が出る。
こちらも毎度変わらぬ出で立ちに身を包んだカトルは、自分のことは棚上げ状態で、川の水で湿り気を帯びた、自らの指先に唇を寄せるトロワを見て、生唾を飲み込んだ。
熱い……。
だからと言って、こんな事をしなくても……。
かぁっと熱くなる躯に、動揺を隠し切れないカトルは、空いた左の手を、じたばたと大きく振った。
トロワがカトルに施したのはキス。
はっきりと言ってしまえば接吻である。
そんな意味を持ったトロワの行動も、カトルにすれば、触れるという表面的な動作としてしか受け取れなかった。
それをもし、トロワが知ればなんと思っただろうか。
トロワが手の力を緩めると、カトルは慌てて手を離した。素早いカトルの動きを、無言でトロワは見つめていた。
表記すれば、えへへっ……だろうか。苦笑いを浮かべたカトルは、トロワのすっきりとした頬に残る水滴に気が付いた。
いや、気が付いてしまった。
「ごめんなさい。濡れてしまったね」
カトルはズボンのポケットを探り、取り出したハンカチで、そっと水滴を拭った。
因みにもう片方のポケットには布製のケースに入れられた、ポケットティッシュが。どこかしら、いつも、ズレ落ち気味に見える、あのズボンには、そのようなものが携帯されていた。オーダーメイドだろうと推察されるお召し物のウエストサイズが合っていないとも考えられなかったが、その程度の重量の負荷で、あのシルエットは出来上がるのだろうか。少しの謎を残しつつ。
出したてほやほやのハンカチに、トロワの意識は集中した。
「……いや」
うわずったり、裏返ることなく巧く発音できていただろうか。
そのハンカチには当然の事ながら、カトルの体温と残り香がぁッ!!
神よ、あなたに感謝します。
トロワは心の中で頭を垂れた。
じ~ん、じ~ん、じ~ん……。
魂が昇天しそうになったトロワは、辛うじて踏みとどまった。終焉など、とんでもない。思い残すことが、やり残したことが、山のようにあった。
カトルと……。カトルに……。カトルを……。カトルが……。カトル……。カトル。
要するにそういう事である。
トロワには本懐を遂げるまでは、生に噛り付く必要があった。
またしてもトロワは、その手でハンカチごと、カトルの手のひらを包み込もうとした。
そうはさせじの何とやら……。カトル自身はそんな不敵な事を思ったわけではなかったが、トロワに触れられるとドキドキしてしまう自分が恐くて、さり気なさを装い、伸ばされて来た手を、サッと躱した。
だ、だめっ!!
リリカルな空気の中で、それぞれの想いが交差する。二人は白熱の攻防戦を演じた。
勝負は一瞬。勝者はカトル。
トロワの手にはハンカチだけが残された。
カトルが勝利を確信し、ほっと息を衝いたのも束の間、トロワは何食わぬ顔でカトルのハンカチを、自分の尻ポケットに仕舞い込んだ。
あああ~~~~っっ、ぼ、ぼくのハンカチがぁァァーーーーーッ!?
カトルはトロワの腰となにを考えているのかわからない顔に、目線を交互に向けた。あがあがと口をぱくぱくさせるカトルに、トロワは気にするな当然のことだ。と言いたげである。
しかし、気にするなというのが無理な相談であり、当然の事とはなんなのか。だが、カトルにはトロワの素知らぬ顔からは、そのような言葉しか読み取ることができない。
トロワ、あのハンカチを気に入ったのかな?
『あのハンカチ』とは、妙に渋いおじ様チェックな柄の大判サイズのハンカチである。綿百パーセント吸収力抜群の代物であった。
知人からプレゼントされ、カトル自身は結構気に入っていたのだが、使用するたびに心なし人の視線を釘付けにする、不思議なハンカチであるとは思っていた。嫌に二度見などされるのだ。
正しく言えば、そのハンカチに問題があったのではなく、カトルの持っているハンカチが、それであったという事が、人をギョッとさせるのである。少女めいた容姿の天使さながらの少年の所有物がそれでは、少なからず驚きを覚え、ピースミリオン内の数少ない目撃者の中には、その記憶を無意識で自動消去してしまった者さえいたという。
嘘か誠か……。
「洗ってからのほうがいいだろ?」
トロワの言葉にカトルは目をぱちくりさせると、そうだったのか、と胸を撫で下ろした。
初めてトロワの考えがわかったカトルは、それでもなぜか、
「ううん。他にもたくさんあるから、ぼくにわざわざ返さなくてもいいよ。よかったらトロワが使ってくれないかい?」
こう言ってしまったほうがいいような気がして、逆にお願いするように申し出た。
数拍してからトロワは返事をした。
「……そうか」
やはりカトルにはトロワがなにを考えているのかがわからなかった……。
トロワは腰に両手を置いたと見せかけて、ポケット越しに、確かに今ここにカトルが愛用していたハンカチがおさめられているのだと、喜びを持って確認していた。
トロワは戦利品を手に入れた。
策略であったとするならば、恐ろしい男である。自慢ではないがトロワと言う男は、カトルの脱ぎたての黒のアストロスーツが競売にかけられたならば、ヘビーアームズを売りとばしかねない、気迫を持った兵士であった。
カトルは少し頭がおかしくなりそうな気がした。トロワといると必要以上に疲れてしまう。それでも一緒にいたい……。
とにかく丸く収まった事に満足して、カトルはトロワに背を向けた。
川辺にある大きな岩に目を付けたカトルは、そこに腰掛けると、片方の靴を脱いだ。するするとシースルーの靴下を下ろし、惜しげもなく、その真白な素足を大気に晒した。
奇怪な男性用のシースルーの靴下とは。
それもまた世の人が良く知るアイテムであった。
中年サラリーマンしか着用しそうもない脛丈の靴下。カトルの装着している靴下はメッシュ地の靴の蒸れから身を守る、抗菌性にも通気性にも優れた逸品であった。足の大きくないカトルは特別オーダーしたのだろうか。
トロワからすれば、どれだけ親父チックなコスチュームでさえ、天使ルックに見に包んだカトルと等しくその眼には映る。カトルの可愛さを妨げる要因には、まるでならなかった。
カトルはそのままゆっくりと、川に足を浸した。
度重なるトロワの謎の行動の前に、体温が上がり、のぼせっぱなしであった。
カトルは冷たい川の水に「ひゃあ、こりゃ、極楽極楽」と、温泉につかった、おじい様のような感想を抱いた。それでも表面を飾る笑顔は幼さの残るものだった。
ここまでくると、タ●ラのジェニーちゃんの皮を被ったカー●のおじさんか、バカボンのパパのようなものであった。
気が付くとカトルはトロワに笑いかけてしまう。その姿を見たトロワは、微笑ましく思い、穏やかな瞳をカトルに向けた。
考えがあまりに掴めなくて、不安になることも多々あるが。じんわりと空気が和む感覚に、カトルはやっぱりトロワが大好きだと思った。
躯の火照りを冷ますために、川の水に足を浸したのにトロワの前ではあまり意味を持たなかった。
カトルももう片方も靴と靴下を、むきゅむきゅと脱いだ。
ぽいっとしてしまうのは行儀が良くないと思ったカトルは、とりあえず、何もしないよりはましさぁ、多分ね……。と、それぞれの靴の中に、脱いだ靴下を詰め込んだ。
岩の上にちょこんと靴を揃えると、ズボンの裾を出来るだけ折り曲げ、そろそろと川に降りた。
足踏みするように水の感触を確かめたあと、パシャパシャと水を飛ばしてみる。流れる水に触れているだけで、楽しい気分になれるのは何故だろうか。
カトルがそのまま、向こう岸の方へ数歩進んだ所でトロワが声を掛けた。
「カトル、気を付けないと尖った石があるかもしれないぞ。怪我でもしたら大変だ」
無表情に過保護ぶりを発揮するトロワは、話しながら靴が水で濡れてしまわないぎりぎりの所まで来て、カトルの方に手を差し伸べた。
戻ってこい……、という事だろうか。
(トロワったら、なんだかカッコ良いやぁ!)
なんて、カトルはドキドキしながら伸ばされたトロワの手に右手を重ね、きゅっと力を込めた。
繋がれた二人の手。
きゅう~~~ん! これは、胸の締め付けられる音。
湯気が立ちそうなほど、カトルは頬をぽっぽと上気させた。思い切ってトロワの手を取ったものの、照れを隠せない。カトルは恥ずかしそうに目線を外して上流の方へ向けた。
すると、そこには……、我らがヒーロー、ヒイロ・ユイ様の御姿が!
川の真ん中で、流れを遮るように仁王立ちしていた。
「あれ、ヒイロ?」
カトルが小首を傾げていると、おもむろにヒイロが水面を、叩くように、薙ぐように、素早く腕を大きく動かした。
ぬう~んっ!! バシャッ!!
ぬう~んっ!! バシャアッ!!
ぬう~んっ!! ぬう~んっ!!
バシャッ!! バシャッ!!
キラキラ光を反射させ、上がる水飛沫。それと共に、何か独特の光沢を持った物が一緒に跳ね上がる。
それが川辺に落ちた。
ピシャッ、ボドッ、ベチッ、ビチビチッ、ビチチチチチッッッッッ。
トロワは納得したように頷いた。
「鮭だな……」
ヒイロは素手で鮭を捕っていたのだ。
下流から産卵のためか、上ってきた所を狙い撃ちしていた。一体どんな川なのか……。
トロワの言葉でヒイロの行動の意味を知ったカトルは感嘆の声を上げた。
「こぉんなことが出来ちゃうなんて、すごいよぉヒイロぉ! あんなに上手にサケを捕まえられる人なんて、きっとヒイロと熊ぐらいだよ!! ね、トロワ?」
「ああ、そうだな」
そうなのであろうか?
一聞、無責任な返答がされたように感じるが、手際の良さにトロワも真剣に「あいつのやることはすべてに徹底している。ヒイロ・ユイのやることは……」と、シリアス顔で感心していたのである。
妙にトロワとカトルの信頼の厚いヒイロであった。
繋がれていたカトルの手は、気が付けば握り拳を作る為、トロワの手から離されていた。
「野性の熊みたいだよ、ヒイロっ!!」
ヒイロの雄姿に興奮気味のカトルは、ぐぐっと拳を握り、絶賛の声を上げている。
すっかり二人の世界を満喫していたため忘れていたが、Gパイロット五人でキャンプに来ていたのであった。トロワとカトルがいる少し下流では、デュオと五飛が口では揉めながら、それでも手際良く、火を熾したりしている。不謹慎と言えば、かなり不謹慎な二人であった。
トロワはポーカーフェイスの下で、ちょっとの空しさを感じていた。カトルとの二人の時間は終わったのである。
「短かかったな……」
ぼそりとトロワは呟いて、まだ少し温もりの残る手のひらを握り締めると、濡れるのも構わず一歩足を川の中へと踏み出した。
水音に振り返ったカトルの視界は、声を出す暇もなくトロワに抱きすくめられ、覆われるように真っ黒になった。
あ、あつい……。
〈本当に終わり〉
初出「ちゃうちゃう」1998年7月19日
それに少しの加筆訂正をしました