待っている人の心柄を表すような、あたたかな灯火を窓から溢れさせる。本当の呼吸をすることが出来る唯一の場所。
安寧をもたらす彼(か)の人の吐息に触れたい。脳裏に浮かぶ微笑が、いつものように光を生む。夜間になっても本当の陽が零れるのは、窓からではなく華奢な躰を取り巻く粒子。目を閉じずともふんわりとした優し気な微笑が見える。
そんな心象風景とは違い、闇夜の黒い背景に埋没し、我が家はひっそりと静まり返っていた。
* * *
予定より一日早く帰宅してしまったが、カトルは今日、出掛けるような事は言っていなかったはずだ。
仕事上で口外できないような名称や場所は伏せることはあったが、特別に干渉しなくてもカトルは何かあるときには決まって自分から会話の材料にするように、様々なことを題材にし、よく話をしていた。
だからまず、留守ではない。
嘘や急な予定変更の可能性を考えないで断言してしまう思考の流れは自分でも理解できないが。今、不快な胸騒ぎが起こっていないという事実がカトルが此処にいる何よりの証拠だろう。最愛の人の非常時にそれを察知しないわけはないのだ。
質(たち)の悪い隠れん坊とは考えにくいだろうから、中に居るのに部屋中を真っ暗にしている理由といえば……。
確認するように腕時計に目を遣ると、九時を少し回ったところだった。
さすがにまだ起きているものとばかり思っていたが……。もう、眠ってしまったのだろう。
急に帰宅して、カトルの驚く顔と喜ぶ顔を同時に見ようと思っていたのだが、そう、要領よくは行かないものだ。かなり空しい勇み足に終わってしまった。
相手の了解もなしに勝手に計画した事なのだから、想像していたような自分自身に都合のよい結果が待ち受けていなかったことに対して、不平を言えるはずがない。
それにも拘らず、こんな些細な事で露骨にガッカリとしている自分は、他人にはさぞかし滑稽に映るのだろう。
結局は相手がどうのと言いながら、自分がその顔を少しでも早く見たかっただけなのだと、カトルに対しては身勝手な感情が動く自分の一面を改めて強く認識してしまった。
* * *
そっと寝室を覗いて、ベッドの人の気配に安堵する。
(ただいま。カトル……)
心の中で呟く。自然と柔和な気持ちになった。
なだらかな布団の山がもそもそと動いている。まだ寝入り端なだけかもしれないが、今日は比較的おとなしく眠っているようだ。
近付いて少し捲れた布団の端を直し、冷えた空気を隙間から抜くように、カトルの身体をふわりと空気を抱いてたっぷりと膨らんだ布団越しに、軽く二度ほどぽんぽんと撫でるように叩いた。
この羽毛布団の下の状態が気になる。カトルはどうしてこんなことをしているのであろう。
壁の方を向いている為に見えるのは襟首から続くライン。物足りずに目線で辿り確かめ、物足りずに弾力のありそうな、愛らしい輪郭で描かれた白い頬に軽く触れた。
そのせいなのか、微かに身じろぎながらカトルがむにゃむにゃと口の中で何か呟いたが、不鮮明な言葉は聞き取れず、耳を近付けようかと迷ったが。離れるのが嫌になりそうな気がして。
コート姿のままでベッドに潜り込まない為に、慌てて部屋から一時退散をした。
* * *
自分でも呆れるほど手早くシャワーを浴び、濡れたままの髪をタオルで大雑把に掻き混ぜながら。取り立てて空腹感も無かったため、水分だけを補給した。
寝室の前まで来て髪からポタリと雫が落ち。仕方なしにまた引き返す。
一人で眠るのならば大して気にもしないことだが。触れた時に、冷たさに驚いてカトルが眼を醒ましてしまっては可哀想だ。
害にならない位置に身を置いてなど、いられるわけがないだろうから。
季節的に空調機に頼らないと室内でもかなり冷えるのだが。体感的には単に心なし寒いというだけで、耐えられない程ではなかった。今日は季節が真冬日のような寒波に襲われていたが、戦場育ち故この程度では個人的には気にならない。カトルがいれば世話を焼いてしまうだろうが。
これくらいで身体を壊すほど脆くもないし、どうせゆっくりとこの部屋で寛ぐようなつもりはないのだから、エアコンは使わず放っておくことにした。
髪を乾かしがてらリビングにあるカレンダーに何気に目を向けると、今日の日付に丸が付けられ、それを打ち消すように乱暴に上から大きくバツ印がつけられていた。カトルが記したものだろう。
聞いてはいないが、今日は何か特別な事柄があったのだろうか。
そう考えながら、キャビネットの上の卓上カレンダーを流れのまま捲ると、バツ印は見つからなかったが、途中から所々に同じような丸があった。
その後ろには今年の初め一月の物から重なっている。一月、二月……後ろのほうになれば極最近になり、記憶が鮮明になる。丸印の意味。その日の出来事。
記憶をめぐり単純な法則に気が付いた。
道理でカトルが早くベッドに入っていたわけだ……。
それにしても、今までカレンダーすらまともに見たことがなかったとは、我ながら無関心にも程があると呆れてしまったが。
こういうときでも落ち着いた表情とは裏腹に、先程よりも足早にカトルの《待つ》部屋へと急いだ。
* * *
ベッドルームに戻ると、まずエアコンをつけた。室温が上がってきたことを確認し羽毛布団を捲る。そしてその下の毛布を数枚剥いだ。いくらなんでも被りすぎだろう。布団で出来た山のようになっていた物体から、漸く人型のシルエットが浮かび上がる。
灯りを小さく絞り込んだベッドサイドのルームランプを灯すと、あまり音を立てないように気を配りながら、剥いだ毛布をゆとりのあったクローゼットの中にとりあえず仕舞った。どこから引っ張り出してきたのだろうか。
何も凍えそうな思いをしてまで空調機を止めなくてもよさそうな気もするのだが。二人で暮らすようになって、カトルはこんな眠り方を思いついたらしい。
体温調節が上手く出来ないから鍛えているらしいのだが、眠っているときのほうがそれが容易ではないと考えなかったのか。それとも、より過酷でいいと思ったのだろうか。
以前、他人(ひと)に温室育ちと言われたことを何となく気にしているのかもしれないが、本来の意味とは根本的にずれてしまっているような気もする。こういう直接的な意味だけで相手も言ったわけではなかったろうに……。
何にせよ、二人でいる時でも就寝前になると早々にエアコンを止めてしまう。どちらかというと、こちらはカトルとは逆に寒さには無沈着だから構わないのだが、布団が暖まるまでブルブルしているカトルの姿を見ているのはいつも気が気ではなかった。暑さには強いが寒さが苦手なカトル。
ベッドに横になった時、さりげなく抱けばカトルは力を抜く。だが、意味ありげな微笑などを口許に浮かべ触れるとカトルは照れて固まってしまう。それも度を越すと拗ねて怒り出す。
しかし、寒くなってくると多少意地の悪いことをしても、膨れながら困ったようにしがみついてくる。それを思うと、このままでも……と、確かに思ってしまうが、一人でベッドを暖めている時は、長時間震えているのかもしれないと思うと不憫になるのだ。
そんな事を思っていたのだが、まさかの毛布と布団であんな状態になっていたとは思わなかった。
優位に立った時に、せめて一人の時はこういう我慢比べのようなことはしないと約束させるべきだろうか。そういうときでなければ、強情なカトルは言うことを聞かないだろうから。堪え性のカトルが音を上げる姿は堪らなく可愛い。もっともこれも誰にも知られない艶事でのこと……。
ルームランプの光量を調節しカトルの方を見ると、さっきは顔を出していたのに布団の中に潜り込んでしまったようでプラチナゴールドの毛先、後頭部だけを覗かせていた。
ベッドの端に腰掛けると、惹かれるように起毛のマットレスカバーの上に散った髪を梳くのではなく撫でた。
寒いのだろうか。背中を丸めて小さく丸くなってしまっている。
投げ出されたカトルの枕が頭の傍で斜めになっていた。それを真っ直ぐに直して、見当たらない自分の枕を目だけで捜し、着ている夜着が冷たくはないかと気にしながらも、カトルの眠るベッドの中にスッと滑り込んだ。
今夜は枕はなしだが抱き枕のカトルがいる。必要な方を決める優劣などわかり切っている。些細なことだ動きと連動し脳内で存在感が消え有無などどうでもよくなっていた。
洗い髪と肌の微かな香りが籠り、カトルの体温が柔らかなぬくみとして広がる羽毛布団の中は気持ち好く。まだ、はっきりと顔も見てはいないのに、帰り着いた安心感を抱いてしまう。心地の良い空間だ。
ベッドの中央で眠るカトルの傍らに身を寄せ、布団を少し下にずらすと。
すぅーと静かな寝息が聞こえた。
やはり少し息苦しかったのだろう……。
ランプのくすんだ灯りを照らされたカトルの顔を覗き込んだ。角度のせいで、はっきりとその面立ちを見ることは出来ないが、丸みを帯びたすべらかな頬に、心配をしていたような泪の痕はなかった。
難しい謎かけではなくカレンダーに記されていたのは、自分が長く家を空けた後に帰宅した日だった。帰ると予定を言った日には、いつもああして印を付けていて帰りを待ってくれたのだろう。
自分のような人間が帰ることを心待ちにしているカトルの早々の消灯は、てっきり泣き寝入りしたものかと思ったが。泣いてはいなくて安心したが、同時に少し意外なその事は物足りないような気持ちもした。
いつの間にこんな自信過剰な男になってしまったのか……。
カレンダーの印の意味が分かった瞬間からむくむくと想像が膨らんだのだ。くっきりとした映像として。
寂しさに涙にくれているものと自惚れられるほど、いつも正直で素直な愛情表現を、カトルから受けているのだと思い、心(おく)のほうが仄かに心地好いさざめきを立てた。
もはや何がどう転んだところで、カトルに対する愛しさは増すばかりだった。
今回は急な用件でバタバタと出掛け、都合で一ヶ月もの間、一切カトルとも連絡が取れなかった。
家を出る間際、早口で帰宅予定の日付を告げて、本心を隠して綺麗に微笑んだカトルに、たまらずに、少し長く口吻けてしまったのがいけなかったのか。
カトルは日にちを覚え違えてしまったようだ。すり替わってしまうくらい脳内が蕩ける恍惚とできる刻(とき)になってしまったのだとしたら、純な処を念押しされて、愛おしさが増してしまう。
らしくもなく乱雑にバツをして印を付け直さなかったところをみると、帰宅日を当日の今日になって勘違いだと気が付いたのだろう。しかも、不貞寝してしまうほど遅くになって。
気付かないままでいたら、事故の心配などして、さぞかし心配していただろうから、それでよかったのかもしれないが。それでも、独りで待っていたカトルの心情を思うと、胸が迫る思いがする。
泣かせたくないのも本心なら、逆もまた然り。
その都度で言っていることが変わり、我ながら一貫性がないとは思うのだが、感情というものが割り切れるものばかりではないという事を学習したのも、カトルと出逢ってからだった。
唯一、人間らしい感情の起伏が起こるのも、カトルが絡む時と限定されてしまっている。
初めて認識した感情は不快感や違和感。それはカトルに感じた強い感情への抵抗だった。
解消する手立ては極簡単な行動。……伸ばされていた手を取る。それだけで良かった。
その白い手を握り伝わってきたものはぬくもりで。抱き寄せれば安らぎ。流れ込むものはひたむきな想い。溶かされたのは不安で。芽生えたものは愛おしさだった。
肩口が冷えるのか、カトルはモゾモゾと布団の中に潜ろうとする。既にかなり下の方へとずれているカトルの眠る場所に合わせて横になると、にヒヤリとしたベッドの柵に足がつかえてしまうっている。動かして起こしてしまわないだろうかと気を揉んだが、少し抱き上げるために、ぐっすりと眠っているカトルの身体の下に、そおっと腕を差し入れた。
その時にカトルが中で乱れた布団を握っているのか、華奢な体躯ではない感触が腕にあたり、少々気にはなったが、軽い肢体を抱きかかえる様にして、それごとベッドの上部にある枕の処まで移動させた。
上掛けから必然的に姿を現したカトルは……。
よく見るとカトルは今腕に当たり気になったそれを抱き締め、顔を埋めて眠っていた。
驚きで少し目を見開いた。
まさかこんな処に……。
溜め息をつくように吐息を洩らして、自然と目を細め微笑を浮かべてしまう。
知らずにそうしたのかもしれないが。カトルが甘えるように抱いていたのは、行方不明になっていたトロワの枕だった。
カトルの物ではないと言えば所有者は誰でも察しがつくだろう。
結果として抱き枕代わりに使われていただけかもしれないが……と、慌てて考えた。
あまり都合のいい嬉しいことばかりを考えてしまうと、本当のことを知ったときに肩を落とすことになり兼ねないと、予防線を張るようなつもりで自分を嗜める。
面を改めつつ他意はなくソロソロとカトルの腕から枕を取ろうとしたとき。取られまいとする微少な抵抗を見せて、
「ん……トロワぁ……」
カトルの唇から微かな声というより音が零れた。
ほんの少しの理性からくる斜めな考えも吹き飛ばされてしまい。起こしてしまってもいいからと、あどけなく眠るカトルを強く抱き締めてしまいそうになる。
どこまで。……この人は、自分を満たしてくれるのだろう。
些細なことだが近くに身を置くだけで、これ程の幸福感をもたらしてくれる。
期待がうまれ。目隠しするように、そっと。
覆うようにして、手のひらで向こうを向いたままのカトルの瞼に触れた。
熱く……。
冷気に晒されて冷たくなっている頬とは対照的に、通常よりも熱さを孕んだ瞼の熱が。全てを告げてくるようで……。
愛おしかった。
* * *
灯りを消して。
寒くはないかと気に掛けながら、カトルの華奢な身体を後ろから、そっと包み込む。
羽毛布団は二人の体温を抱き込んで、ふんわりと肌に馴染み。いつしかここは寒さなど無関係な空間になっていた。
瞼が通常より熱いということが伝えてくることは。
眠るカトルの愛の調べだ。
穏やかな正(せい)の感情に支配されながら眼を閉じて。
枕を抱いたカトルがはやく寝返りをうって、こちらを向いてくれないものかと願いつつ。最愛の人の柔らかな芳純な香りのする髪に、微かに頬を寄せて。
甘い至福に身を委ねた。
■FIN■